聖トールダン大聖堂は、星芒祭のミサを前に、人々のさざなみのような話し声と、子どもたちの笑い声に包まれていた。
子どもたちは神学生に前方へ座るよう勧められ、親の手を引いて嬉しそうに駆けてゆく。前列には、様々な身なりの子どもたちとその親が集まった。豊かな毛皮のマフラーを巻いた少年、年季の入ったぶかぶかのコートを羽織る少女。ロランベリー・フィールドの子どもたち。中には、親の気配がない兄弟姉妹もいた。保護を受けていない子どもたちがまだ大勢いるのだろうと想像し、子どもたちの様子を遠くから見守る男——アイメリク・ド・ボーレルの胸の奥深くが、薄暗く傷む。
聖トールダン大聖堂の門をくぐってしばらくは、アイメリクは金属扉の近くに立ち、人々の行き交う様子を眺めた。
星芒祭、おめでとう。人々は神学生や修道女らと祝いの言葉を交わして、アイメリクの肩を通り過ぎ、大聖堂の奥へと歩んでゆく。皆の表情は、一昨年よりも、昨年よりも、ずっと明るくなった。
還らぬ家族や恋人、友人の命と引き換えに、竜詩戦争は終わりを迎えた。別れの悲しみは拭えず、やるせない思いも一人ひとりに、自分にだってあったが、前を向いてみると、イシュガルドは幸福が約束された時代を迎えていた。
今宵の参列者の内には、多くの赤ん坊の姿を見ることができた。それだけ蒼天街事業をはじめ、様々な政策が成果を上げ始めたということだろうか。年が明けたら、人口調査を行わねば。政策評価も——人々を眺めていると、仕事のことを考え始めてしまっていけない。
それからアイメリクは、見知った顔に挨拶をして回った。議会議員の家族たち、ゼーメル、デュランデル、アインハルト、フォルタン各家の若き当主と兄弟諸君。アルトアレールの顔を見ると、用もないのについ相談事を探してしまう。良心で堪えて、アイメリクはアンドゥルーの一家を探した。
ダンボー家は前方に招かれ、娘を囲んで楽しげに談笑していた。娘はアイメリクに気がつくとピョンと椅子から下りて、胸に手を当て膝を折ってお辞儀をした。少女は小さくとも女性なのだと、誰かが言っていたのを思い出す。アイメリクも手をゆっくりと振り下ろし腰を折って、恭しく紳士の挨拶をしてみせた。
娘は淑女として扱われたことがよほど嬉しかったのか、澄みきった眼差しでアイメリクを見つめ、天気や今夜の予定など、淑女らしい世間話をアイメリクとしようとした。ちょうど、大人と対等に話がしてみたい年頃なのだろう。
「アイメリクさまは、今夜はどなたとお過ごしになるのですか?」
「旧い友人が帰ってくるので、彼と共に過ごします。我が家でディナーをとる予定なのですよ、レディ。あなたは?」
「両親と過ごしますわ。お父様がプレゼントをくださるそうで、楽しみにしていますの」
「それは良い。何を貰われたか、またお会いできましたら教えてください。よい星芒祭を」
娘の、人好きのする笑顔は、アンドゥルーによく似ている。健やかに育て、とアイメリクは心の中で星神ニメーヤに祈り、アンドゥルーとその奥方に日頃の感謝を述べて、前方を後にした。子どもたちの集まる様子を横目に見ながら、アイメリクはようやく、大聖堂の最後列の角の席に収まった。
周囲には雲霧街に住まう民が多く座っており、総長さまがなぜこんなところに、もっと前へ行ったら宜しいのにと皆驚いてアイメリクに声を掛けた。これは、答え方を試されている。良いと言わざるを得ない尋ね方が出来るとよいのだが。言葉遣いと言葉選びに注意深く気を払って、聖歌集を隣に一冊置き、その向こうに座っていた老婆に言った。
「私はあなた方と共に祈りを捧げたいのですが……ここへ座っても宜しいですか?」
「ええ! 失礼いたしました。私共で良ければ、どうか、どうかここへおいでください。光栄です、総長さま」
なるほど、貧民にも理解ある彼らしい振る舞いなのだと、皆安心して視線を前へ戻した。日頃から笑顔を練習しておいた成果が出た。アイメリクはほっと胸を撫で下ろす。
彼らと共に祈りたいのは勿論本心だが、まもなく来るであろう旧い友人は、後ろや角を好む性質である。友人が気に入りそうな場所を確保したかっただけなのだが、説得のようなことをしなければ雲霧街の者たちの中には席を取らせてもらえない立場であることを、改めて思い知らされた。
もう一冊の聖歌集をぱらぱらとめくる。今夜のミサで歌う聖歌の頁に、栞を挟んでゆく。待つ間の暇つぶしになればと思ったが、その作業は数分もかからずに終わってしまった。
背もたれに肘を置き、入り口に目を移す。
開け放たれた門をくぐって、イシュガルドの民が次々とやってくる。皆、肩に雪をつけて、鼻先を赤くして、大聖堂の暖かさに喜んで奥へ進んでゆく。あちこちに置かれたストーブは、薬缶から湯気を高く上げて人々を歓迎した。
入ってくる人の顔を注意深く見るも、皆、待ち人ではなかった。アイメリクは小さくため息をつき、腿の上に乗せた聖歌集をまたぱらぱらとめくる。安全にイシュガルドに向かっていることを祈りたいし、気まぐれに逃げていないといい。執事が腕によりをかけて作ったディナーを、友人にも食べてもらいたい。
だが、こうも待たされると、少しだけ気持ちが険しくなってゆく。旅人に帰って来いなどと、言うものではなかったのだろうか。あいつは、破る可能性がある約束はしない。ならば、今回はミサに間に合うように帰るはずだ。心臓が重たくなって、腹へと引っ張られてゆくような感じがしたが、それよりもそんな感じがしている己の卑しさが嫌になった。信じて、しかし期待せず待つのが、真の友人というものだろう。
内ポケットから、懐中時計を取り出す。もうまもなくで、ミサが始まってしまう。
金属の扉が軋む音が響いた。閉門の準備だ。
——来なかったか。
アイメリクが諦めて懐中時計の蓋を閉じたとき、十数名の集団が大聖堂へぱらぱらと滑り込んできた。
いた! アイメリクは手を掲げ、最後尾の男に合図を送る。男は辺りを見回していたが、やがて気が付き、結んだ髪を左右に揺らしながら急ぎ足でアイメリクの隣にやってきた。
「悪かった。フネが遅れてな」
「無事で良かったよ、エスティニアン。間に合ってよかったな」
アイメリクは聖歌集をどけて、一つ奥へ掛けた。老婆に会釈して、エスティニアンを自分が元いた席へ招いた。
「尻が温かい」
「そうだろう。お前のために温めておいた」
ふ、と笑うエスティニアンに、アイメリクは栞を挟めた方の聖歌集を渡した。エスティニアンの肩に散らばった雪の結晶が、じっくりと溶けて消えてゆく。
近くに座っていた者たちは、総長さまに続いて蒼の竜騎士さままで、と感動のため息をもらした。二人が仲睦まじく言葉を交わすさまを、神使の休息を見ているような気持ちでちらちらと見ては喜びの声を小さく上げた。エスティニアンは辺りの視線に気がつくと、居心地が悪くなったのか、髪を解いてうつむき、民の視線を遮ってしまった。なるほど、どの席を取っても、英雄には荷が重かろう。
——大聖堂に、鐘が鳴り響く。民はおしゃべりを止め、ぞろぞろと立ち上がった。
静けさが満ち、聖歌隊が席に並んだ。
すうっと息を吸い込んで、聖歌隊は透き通った声を響かせる。その歌声は、美しく厳かな夢の中にいるようだった。ミサが始まり、司祭は民の祈りと幸福に満ちた視線を集めながら、中央通路を辿ってゆく。子どもたちは目を輝かせ、司祭を見つめた。
階段を登り、聖歌隊席を過ぎて、司祭は講壇に立った。
「祈りましょう」
司祭の言葉で、歌が止んだ。皆が目を閉じて、胸の前で手を合わせる。
アイメリクは薄目を開けて、エスティニアンをちら、とみた。エスティニアンはかたく目をつぶって、皆と同じく手を合わせていた。
なるほど、彼もまた、私たちと同じイシュガルドの民なのだ。思わず笑みが溢れる。在るべき者が、在るべきところへ帰ってきた。そしてその身に染み付いた、イシュガルドの民らしい祈りの姿。それが見られて、アイメリクの胸に、温かなものが満ちていった。
たった一瞬しか見つめていなかったつもりだったが、エスティニアンはアイメリクの視線に気がついて呼びかける。
「なんだ」
彼は手を合わせたまま、小声で尋ねた。話しながら祈り続けるさまも、まさにイシュガルドの民そのものだった。
「おかえり、エスティニアン。言いそびれてしまったと思ってな」
「そうかよ。……ただいま」
その声を聞いて、近くの者たちが次々に目を開けた。そして、手を合わせたまま、小さな小さな声でこう言った。
「おかえりなさい、蒼の竜騎士さま」
「おかえりなさいませ、よくぞお戻りくださいました」
「エスティニアンさま、おかえりなさい」
人々から柔らかな眼差しが注がれ、エスティニアンは驚いて、アイメリクを見た。これはまったく予想外で、アイメリクは首を左右に振った。
エスティニアンは口元に人差し指を置き、近くの者たちだけに聴こえる声で、囁いた。
「ただいま」
人々は手を合わせたまま小さく頭を下げて、ミサに戻っていった。皆、喜びに溢れた表情を浮かべていた。
エスティニアンが、人の喜びと感謝を、素直に受け取ってくれた。アイメリクはそれが、嬉しくてたまらなかった。もっともっと、受け取って欲しいとさえ思う。エスティニアンが帰ってきたぞと多くの民に呼びかけ、人々の感謝の念をフラワーシャワーのように浴びて欲しい。彼が英雄殿とともに竜詩戦争を終結させたから、トールダン大聖堂の前方にはあんなにもたくさんの子らが集えたのだから。
エスティニアンは困ったような顔をして、アイメリクを見た。アイメリクまで、おかえりと声をかけた人々と同じ顔をしていたからか、エスティニアンは目を丸くして、また髪で周囲を遮ってしまった。
子どもたちを祝福する祈り、星芒祭の歌などが続く。アイメリクが耳を澄ませると、エスティニアンが慣れたようにすらすらと歌う声が聴こえてきた。エスティニアンは時々、祈りの言葉でつっかえた。その度にアイメリクは、エスティニアンが続きを思い出せるよう、少し声を大きくして祈った。
司祭は皆に着席を促し、星神ニメーヤの聖人・白鬚の衛兵隊長の逸話を語る。この話が、子どもたちは一番好きだ。子どもたちは熱心に顔を上げ、司祭の語りを吸収した。かつては子どもだった大人たちも、懐かしさに目を細めて、逸話に耳を傾けた。
寒さに震えた戦災孤児たちを見かねた衛兵隊長は、自身の緋色の外套を孤児たちに着せて、兵舎に招き入れるのだ。温かいパンとスープをもらい、孤児たちは元気を取り戻す。
前方に座るロランベリー・フィールドの孤児たちが、笑みを浮かべて頷き合っていた。彼らは星神ニメーヤへの祈りを、どの子どもたちよりも心のずっと深いところで唱え、捧げたにちがいない。
いくつかの祈りと聖歌の歌唱の後、
「行きましょう、守護聖人とともに」
司祭の閉式の一声。二人はエスティニアンの提案で、誰よりも素早く立ち上がって早歩きで教皇庁を後にした。
外からでも聖歌隊の歌声が聴こえ、やがてそれらは人々の足音に隠れていった。群衆から離れ、二人は歩を緩めて坂道を下った。
見上げれば、吸い込まれそうなほど真っ暗な空から、羽のように軽い雪が降り注ぐ。広場に辿り着いたところで、アイメリクは雪を払って泉の縁に腰掛け、手のひらを差し出して雪の着地を待った。
「星芒祭ミサなんぞ、いつぶりだ。そもそも俺たちは、外でプレゼントを渡す役目だったろう」
「懐かしいものだな……。神殿騎士団に入る前は、ミサには出席していたか?」
「ああ。アルベリクに連れられてな。13の頃からは毎年通っていた。子どもは前だと押し込まれて、高貴で呑気なガキ共に腹を立てていた」
「では私たちは、毎年大聖堂ですれ違っていたのだな。こうして交わったのは、まさに奇跡だった」
「お前が交わらぬ運命を強引に捻じ曲げて繋げたんだろう。奇跡なものか」
アイメリクはからからと笑った。エスティニアンは夜風に髪を靡かせ、アイメリクに立てと手を差し出す。骨ばった手に掴まると、荷馬車を易々と引けそうなほどの馬鹿力で引き上げられた。なにものをも破壊できそうなほどの力を浴びて、アイメリクの少年心が目覚める。
「よし! 競争だ、エスティニアン!」「あっ、おい!」
ポケットに手を突っ込んで、二人はボーレル邸へと走り出す。
まだミサから戻らぬ主人を待つ家々は、明かりを灯してまどろんでいる。その中を二人は、足を引っ掛けたり小突いたり、悪口を言い合ったりと忙しくしながら、少年のように駆けていった。
