たとえ夜が明けなくとも、羊には草を食わせなくては。幼きエスティニアンは、雨音が止むとともに起き、身支度を整える。
外で桶から水を掬い、顔を洗っていると、弟のアミニャンが眼をこすりながらふらふらと近寄ってきた。アミニャンはエスティニアンの様子を見て驚き、エスティニアンの手首を掴んで「いかないで」とせがんだ。しかし、羊たちを飢えさせるわけにもいくまい。家でじっとしていろ、父さん母さんを頼んだぞとなだめて、アミニャンの頭を撫でてやる。そしてエスティニアンは飼い犬を連れ、羊の群れを率いて、山道を登っていった。
もう三日、朝が来ていない。空は星も通さない闇に覆われ、彼方からやってきた飛竜の群勢がイシュガルドの民をなぶるかのように、咆哮を上げては縦横無尽に飛び回っている。
飛竜のブレスで、空も空気も爛れている。その空気の薄さか恐怖からか、大きく息を吸い込まねば、空気を摂取できた気がせず、息苦しい。山道を上がれば上がるほど、息苦しさは増していった。
「今に終わる。神殿騎士様が戦っているんだ」
昨日、ドーンヴィジルが邪竜の眷属による急襲を受けたと、神殿騎士の伝令がファーンデールへ状況を伝えに来た。ドーンヴィジルは、中央高地と東部高地の境にある監視台である。近すぎる、東部高地もいよいよかと村人たちの間に不安が広がったが、眷属の群れならば制圧できると伝令は言う。
あの神殿騎士の鉄仮面から覗く鋭い瞳を思い出して、エスティニアンは杖をきつく握りしめた。
「大丈夫だ」
そう自分に言い聞かせて、エスティニアンは羊の毛を撫でた。
羊たちを見、エスティニアンは思う。自分の髪が羊と揃いの色でよかった。羊たちが草を食べているあいだは、彼らの身体にぴったりと身を寄せ屈んでいればいい。フェルトの白いチュニックを着て来たから、いよいよ飛竜からは見えるまい。
一時間ほど歩いてきただろうか。山道を上り切って、ようやく、牧草地に着いた。エスティニアンは群れの中で仔羊のように小さくなって、頭上の飛竜を盗み見た。
今日はいちだんと、飛竜の咆哮が騒がしく聴こえる。こちらを嘲笑うかのようなけたたましい声に、エスティニアンは怒りを覚えた。
氷が混じったような冷たい風が鋭く吹き、闇が空へぐるぐると吸い上げられてゆく。こんな光景は初めてだ。空模様が昨日とは違う、敵意を感じる姿をしている。
(本当に、大丈夫なのか)
闇が自分の心臓をも侵食し始め、エスティニアンは飼い犬の首にしがみついた。飼い犬が頬を舐めてくれて、エスティニアンは少し、落ち着きを取り戻した。
エスティニアンは、羊の前脚と後脚の間から、赤黒い草むらを見渡した。アミニャンに止められたときの引きつった顔が、脳裏に焼き付いて離れない。いつも通り羊に草を食わせる仕事をこなすことで、心も落ち着くだろうと考えていたのだが、かくも異様な空の下では、仕事がまともに手につかなかった。風は頭の中に侵入したかのように煩く鳴っているし、胸は怒りのような、哀れみのようなざわめきに包まれている。だんだん心細くなってきて、エスティニアンは飼い犬の背を撫でた。
「帰ろう」
羊たちはもうとっくに帰りたかったのかも知れない。まだ腹二分ほども食べていなかったはずだが、エスティニアンが立ち上がっただけで皆草を食むのを止め、普段よりもずっと早く集まった。羊たちはエスティニアンを囲み、守るようにして歩き始めた。束の間の安心感に抱かれて、エスティニアンは山道を下り始めた。
山道からは、東部高地が広く見渡せる。沈思の林は遠くでざわめき、キャンプ・クルケッドフォークのエーテライトが青白く光を上げている。ここから見るとファーンデールはとても小さく、家々の白い石壁には深い影が落ちていた。
「悪かったな、怖い思いをさせて」
それは、弟への詫びの言葉であったし、飼い犬や羊たちへの償いの言葉でもあった。早く帰って、皆を安心させてやらねば。一刻も早く帰ってやりたかったが、牧草地から家までは、とてもとても遠かった。
麓に近づくにつれ、ますます息苦しくなってきた。風は勢いを強め、エスティニアンの髪を引っ掻き回す。耳元で轟々と風が鳴っている。エスティニアンは杖を祖父のようにつき、山道を下った。少しずつ東部高地が近くに見えるようになってきて、エスティニアンは杖を握る手を、やっと緩めることができた。
——ドン。
エスティニアンは驚いて咄嗟にしゃがみ込んだ。爆発音か。暴風が麓から草花を剥がしながら一瞬で駆け上がってきて、たちまちエスティニアンたちを呑み込んだ。息ができない。羊たちが動揺して、ざわざわと散り始めた。いけない、父さんから預かった、大事な羊なのに。待ってくれ。
野焼きのような臭いがして、エスティニアンは懸命に目を開けた。
「なんだ、あれ……」
黒々とした鱗をもつ巨竜が、麓に降り立っている。鉤だらけの長い尾を揺らし、コウモリのような鋭い翼を空いっぱいに広げている。巨竜は天に向かって咆哮を上げ、天地を揺らした。エスティニアンは耳を塞ぐので精一杯だった。
飛竜が、豪雨のように降り注いだ。エスティニアンは涙を滲ませ、口を塞ぐ。ファーンデールが、今、襲われたのではないか。
「ちがう」
エスティニアンは杖を握りしめ、一目散に山道を駆け降りる。脚がもつれ、暴風に何度も身体が煽られた。エスティニアンは何度も転び、そのたびに立ち上がって村を目指す。母さん、父さん、アミニャン、みんな。生きていてくれ。どうか。
だが、祈れば祈るほど願いは絶望に変わった。あの巨竜は、ただの竜ではない。見たことがなくともわかる。あれがきっと、邪竜ニーズヘッグなのだ。ニーズヘッグは口を大きく開くと、炎の球を作り、辺りをたちまち火の海にした。
「やめろ! やめろ……ッ」
エスティニアンは涙でかすむ目を何度も袖で拭って、走り続けた。肺がちぎれ、喉が裂けそうだった。それでも走った。麓から上がってくる焼け焦げた煙を大量に吸ったせいか、次第にめまいがしてきた。煙のせいで目もひどく痛くなってきて、立っているのがやっとだった。
麓に着き村の入り口にやっと辿り着いたとき、ニーズヘッグが叫び、大きくのけ反った。何かを振り払うように首を揺らして暴れている。家に帰らなくては。母さん、父さん、アミニャン。瓦礫の向こうでたくさんの叫び声が聴こえる。エスティニアンは倒壊した家々の瓦礫に身を隠しながら、飛竜の視界を避けて走った。
そしてやっと、家に帰ることができた。かろうじて建物の形はとどめているが、今にも崩れそうに歪んでいる。
「あ……」
庭先に、焼け爛れた二人の死体。エスティニアンは恐る恐る近寄って、一人の頬に触れた。
「かあさん」
もう一つの死体の胸には、父が肌身離さず身につけていたウルフファングネックレスが張り付いていた。
「うそだ」
彼らの傍には鍬と鋤が転がっていた。庭の干し草が、白い煙を上げて静かに燃え続けている。
「アミニャン、」
せめて弟だけでも助けられたら。震える脚で立ち、希望をかき集めて、エスティニアンは迷わず家に駆け込んだ。
「アミニャン!」
家に入ってすぐ、アミニャンが倒れているのが見えた。エスティニアンは駆け寄って膝をつき、アミニャンを起こそうと呼びかける。
アミニャンは、綺麗な寝顔をしていた。
「起きろ、アミニャン……」
しかし、アミニャンの脚の上には、太い梁がのしかかっていた。
「あ、あ……ッ!」
エスティニアンは小さな手で、アミニャンの白い小川のような髪を撫でた。まだ温かく、まるで生きているかのようだった。だが、辺りの床を真っ赤に染めるそれを見て、エスティニアンは、この幼き命が助からないことを悟った。
両親はアミニャンを守るべく竜と戦おうとし、アミニャンは、家に隠れていたのだろう。どれほど怖かったろう。どれほど心細かったろう。怯えて小さくなっているうち、竜が巻き上げた風や炎で家が壊れ、梁が崩れ、逃げようとしたアミニャンの脚の上に落ちたのだ。
エスティニアンは、声を上げずに泣いた。歯を食いしばって、血が滲みそうなほど拳を強く握って、滝のように涙を流した。その涙は、運命を呪う涙だった。
おれが、羊の世話に出なければ。あのとき、アミニャンが引き留めたのを聞き入れていれば。おれが父さんと一緒に竜と戦えば、母さんとアミニャンの二人を守れたかもしれない。そもそも、ニーズヘッグが来なければ。ニーズヘッグがいなければ。ドラゴン族がいなければ、皆、平和に生きていられたのだ。なぜおれだけが生きている。なぜ生き残ってしまった。おれが死ねばよかったんだ。弟の代わりに、家族の代わりに、おれが。
また爆発音がして、崩れた窓から、暴れ回るニーズヘッグの鱗がはっきりと見えた。
「殺す……殺す! 殺すッ!」
エスティニアンは家から飛び出して、焼け焦げた鋤を掴んだ。ニーズヘッグの長い尾がこちらへ翻り、エスティニアンは無我夢中で手を伸ばす。頭の中に響くような風が煩くて、目を瞑ってしまいそうだ。
「危ないッ!」
不意に身体がさらわれて、エスティニアンは気がつくと、全速力で向かってくる風の中にいた。驚いて、エスティニアンは鋤を落としてしまった。邪竜は家々を破壊しながら翼を羽ばたかせ、瓦礫を巻き上げては地面に叩きつけて、身体を浮かせた。
「待てッ、ニーズヘッグ……! 殺してやる! 殺してやる!」
エスティニアンは風の中でもがいたが、身体が何者かの腕に固められて、言うことをきかない。
「総員、退避ーッ! 退避ーーッ!」
頭上で鋭い声がした。ニーズヘッグはその巨体を力強く持ち上げて、飛び去ろうとしている。眼下では竜の群れが、いまだファーンデールを踏み荒らしている。人々の叫び声がまだ聴こえる。だれか、まだ、生きているんだ。
「まだ、人が、」
「すまない……ッ」
頭上の男は、絞り出すように謝罪の言葉を呟いた。黒チョコボの翼が、目を覚ませとばかりにエスティニアンの頬を撃つ。身体がふわりと浮き上がって、エスティニアンの脚は黒チョコボの身体を跨ぐ。腹は男の片腕で固められた。
「ニーズヘッグ……殺してやる!」
エスティニアンの思いとは裏腹に、ファーンデールが遠ざかってゆく。白い煙があちこちから立ち上り、黒チョコボで退避する神殿騎士団の群勢を、ドラゴン族が地上から嗤った。
皆で集った教会。教会の周りには皆で植えた花々があった。朝の放牧を終えて村に戻ると、教会からいつも助祭さまが出てきて、エスティニアンに声を掛けてくれた。教会の横の小道を抜けると我が家があって、エスティニアンが羊を連れ帰ると、両親が喜んで出迎えてくれた。羊を小屋に戻していると、向かいの牧場から牛や鶏の鳴き声が聴こえてきた。我が家で採れた作物を教会に持っていくと、隣近所の人々が卵や肉と引き換えてくれた。今日は、そういう一日になるはずだった。明日も、ずっと、そういう日々が続くはずだった。エスティニアンは振り返って、小さく遠くなってゆくファーンデールを、いつまでも見続けた。
「君、名前は」
「エスティニアン・ヴァーリノ……」
うまく名前が言えたかどうか、わからない。目からも喉の奥からも涙が込み上げてきて、誰に救出されたのだか、見ることさえできなかった。
邪竜の去った空には、薄明かりが差していた。空は深い雲に身を包み、今にも泣きそうに顔を歪めていた。
