契り

 若き神殿騎士団の団員に充てがわれている隊舎は、一部屋一部屋が狭く、二段ベッドと文机があるのみの極めて質素なものである。おまけに老朽化が進み、風が少し吹いただけで窓がかたかたと音を立て、隙間風で蝋燭が揺らめく。アイメリクと同室だった貴族の傍系の青年は数ヶ月前に許嫁との婚礼を口実に隊舎を出て、今はアイメリク一人がこの部屋を使っている。
 彼は訓練の傍ら、王権神授に代わる新たな政治体制を模索していた。分厚い政治哲学の学術書と毎晩対話を行っては、紙面への書き込みを増やしてゆく。今も、その対話の最中だ。
 ふ、と一息つき、アイメリクは紙面から眼を離す。椅子の背もたれに身を預け、瞼を閉じて思考の海に深く潜る。
 眼前に雲霧街を広げる。アバラシア山脈から吹き下ろす冷涼な風が雲霧街の貧民たちの身体を痛め付ける。彼等は同じ人であるのに劣ったものと見なされる。読み書きもままならない者も多く、職業の幅を狭められ、政治に参加することも敵わない。教皇を中心として上層の貴族らが決めた法や取り決めに従わざるを得ず、雲霧街の貧民の意見はどこにも反映されていない。そうした現実に胸を痛める上層の者はほとんど居らず、領民より既得権益を守る貴族が山ほど居るのが現実だ。政治は民と、民の代表たる政治家の契約によってなされることが望ましいのではないか。権力は民によって制限をかけられなければならない。
 続いて、イシュガルド上層を広げてみる。腐敗した社会の中で、自分のような妾の子どもが産まれ、忌み嫌われる。相手の貴族の名など隠しても容易に知れ渡り、成長した子の容姿が男に似ていると、いよいよ隠し切れず冷やかしの対象となる。そんな妾の子らは大概は雲霧街の塵として捨て置かれるが、或る時突然跡取りの一人として迎え入れられることがある。その後の生活は、環境こそ恵まれているが尊厳を傷付けられるという点において生き地獄である。
 アイメリクは、ハルオーネ像を眼前に広げ、そして問う。どうして同じ人であるのに、平等に誕生を祝福されない?誰もが等しく生きられる世を創らねば。この世を、続けてなるものか。——アイメリクは、書物を読む夜は決まって最後に、思考の海で自身の意志を確認するのだった。
『アイメリク!』
 突如、廊下に面したドアの外から、ひそひそと名を呼ぶ声とともにノックする音がした。アイメリクは眼を瞬かせた。間もなく日付けが変わる時刻、こんな夜更けに人が訪ねてくるとは思えない。隙間風と窓の震えを聞き間違えたかとも思ったが、念の為ガウンを羽織り、出口へと向かった。立ちあがると急に、身体に溜め込んでいた温かい空気が逃げて行き、代わりに冷気が身を包み始める。身震いしながら、氷のように冷えたドアノブを捻り、扉を引いた。そこには——
「エスティニアン!」
「デカい声を出すな。入るぞ」
エスティニアンは、扉が開けられるなり、猫がする如くするりと部屋へ侵入した。アイメリクは慌てて扉を閉め、目を白黒させる。エスティニアンが自室を訪ねて来るなど、初めてのことだ。そもそも、フェルウッドでの哨戒任務の帰りに何気なく話した部屋番号を、相手がしっかり覚えていたことに驚いた。
「何事だ?」
「同室の奴が知らない奴を何人も招いて、酒を片手に乱痴気騒ぎをしていやがる。面倒だから逃げてきた。」
エスティニアンは腕を組み肩を竦めて、二段ベッドの梯子に凭れかかる。アイメリクは密かに思う。知らない奴と言うが、その者たちも神殿騎士団団員だろうに。相変わらず周囲に対して無関心なエスティニアンは、顔も名前もはじめから覚える気がないらしい。
「どこぞの神殿騎士様は、俺のような善良な市民をお見捨てにはならんだろう?」
「知った口を」
座ったらどうだと空いた椅子を差し出すと、彼はあっさりと腰掛け、使われていない文机に肘をついた。
「それより、私の部屋を覚えていたのか。嬉しいよ」
「まぁ、な。避難場所は覚えておくに限る。」
避難場所として認識したということは、いくらか気を許しているということか。察したアイメリクはくつくつと笑う。エスティニアンはばつが悪くなって、蝋燭の揺らめく炎に視線を移した。
「お前は、何をやっていたんだ?起こしたのなら悪いが……」
「読書、といったところか。これを読んでいた。」
「ほう?」
エスティニアンは、アイメリクが差し出した分厚い本を何気なく手に取る。随分と栞が多く挟まれていると思いきや、ぱらぱらと広げた中には恐ろしい光景が広がっていた。隙間という隙間にびっしりと、自身の解釈や意見などの書き込みがなされている。アイメリクの頭の中を覗き見たような心地がして、背筋が凍る。彼が読んでいるのはただの小説や評論などではなく、難解な哲学書らしい。古い言語で書かれているため、聞き慣れぬ言い回しもあったろう。それを咀嚼しながら、さらに自身の意見までもつとは。学に疎いエスティニアンでさえ、本の持ち主が常人でないことは容易に理解できた。
「オイ、何がお前をこうさせる……?」
男の中にうねる深い執念を垣間見たように感じられ、エスティニアンは、生まれて初めて他者へ畏怖の念を抱いた。若き神殿騎士団団員たちは、来る日も来る日も夜営をしながら遠方まで行軍し、一日中休む間も与えられぬまま弓や剣、槍の訓練をして、ドラゴンの襲撃に駆け付けては命を危険に晒している。そのような死と隣り合わせの日常の中で、この男は目先のことに囚われず、もっと大層なことを思考し続けているらしい。
「……君は、私の出自の噂を聞いたことがあるか?」
「何の事だ?」
普段から他人の会話なぞ一切耳に入れようとしないエスティニアンには、手繰れる記憶もなくただ首を傾げるよりほかない。
「ハハハ、知らないのも無理はない、か。……私は、現教皇の、妾の子、だそうだ。」
重々しく告げられた言葉に、エスティニアンは眉を顰める。アイメリクの身の上話は続く。
「教皇は妾との間に子をもうけると、生後間もなく、跡継ぎが居らず途絶えようとしていたボーレル子爵家へ養子に出したそうだ。それが私、アイメリク・ド・ボーレルであるらしい」
「何だそれは?随分身体を張った慈善活動じゃないか。」
「両親から直接聞いたわけではないから、真実かどうかは私にもわからない。当の両親は話す気などないようでな。今のところ、教皇に直接確認する術もない。ただ、噂を好む者達からそう教えられてきた。」
「それで……学をつけ、成り上がり、教皇に謁見する機会を得ようって、そういう寸法か?」
「解りが良くて有難い。だが、それだけじゃない。……私のような者を、これ以上生んではならないと、思っている。」
穢れた血と忌み嫌われ、手柄を上げれば親の七光りと言われてきた。いかに努力を積もうとも、ガラスの天井に阻まれる。そのような苦く辛い思いをする者は、自分で最後にしたい。出自に関わらず、誰もが努力すればした分だけ認められる世を創りたい。身分の壁を取り払い、皆で智慧を出し合って、皆で未来を創りたい。そのために神殿騎士団総長を目指すと、アイメリクは言う。エスティニアンは、あまりに突拍子もない夢物語ににまにまと嗤う。そして、アイメリクに問うた。
「お前が創る世に、竜詩戦争は必要か?」
アイメリクはハッとした顔で、エスティニアンを見た。アイメリクの蒼く澄んだ瞳に、困惑の色が雑りゆくのを、エスティニアンは見逃さなかった。
「必要なものか……民が血を流し、怨みを募らせ、戦争に身を投じ続けていては、いかに変革を試みようとも目指す世は訪れまい。だが、千年だ。千年もの間……」
アイメリクは、悩ましげに額に手を当て、かぶりを振った。その様子に、エスティニアンは自信を漲らせる。
「では、そっちは俺が引き受けるとしよう。俺がニーズヘッグを討ってやるから待っていろ。」
「馬鹿な!」
「馬鹿なものか。自分のような者を二度と生んではならん、とお前は言ったな……俺も同じさ。神殿騎士団に入団して、イシュガルドには俺のように、ニーズヘッグに何もかも奪われ、邪竜を恨み続ける、亡霊のようなヤツが大勢いることを知った……。民の無念は俺が晴らす。」
エスティニアンは、蝋燭から伸びる影を睨み、唸る様な声で憎しみを吐露した。その異様さに、アイメリクは思わず問うた。
「君は……どこの生まれだ?」
「ファーンデール。と言えば、通じるか?」
「そうか、君が……」
神殿騎士団に蒼の竜騎士・アルベリク卿の弟子が入団したらしいという噂は聞いていた。その弟子はなんでも、クルザス東部高地・ファーンデール唯一の生き残りらしいと。ファーンデールの被害状況は皇都にも伝わっており、当時は悲嘆に暮れる声があちこちで聞こえていた。
「俺は次期・蒼の竜騎士で、お前は次期・神殿騎士団総長だな。邪竜殺しの延長線上にお前の目指す平和が在るのなら、俺とお前の歩む道は同じだ。そうだろう?我が『友』よ。」
「友、と認める気になったのか!」
つい先日まで、友よと呼びかけると厭な顔をしていたエスティニアンが、自らの意思でアイメリクを友と呼んだ瞬間である。驚きと喜びを隠そうとしないアイメリクに、エスティニアンは苦笑いを浮かべた。
「明日には気が変わっているかも知れんがな。……っと、そろそろ上官が見廻りに来る頃か。乱痴気騒ぎが収まっているといいんだが」
エスティニアンは、世話になった、と立ち上がると、僅かに腰を浮かせたアイメリクの頬へ唐突に手を掛けた。アイメリクはたじろぎ、浮かせた腰はがたんと音を立てて椅子に沈む。エスティニアンの熱を帯びた親指が頬から顎へ、そして唇へと伸びゆく。揺らめく灯りにほんの一瞬だけ照らされたエスティニアンの瞳には、ぎらぎらとした表現し難い感情が宿っていた。二人の近しく狭き空間に、誰のものとも知れぬ、情に濡れた生温い空気が流れる。刹那、エスティニアンは友の唇に己の唇を重ね合わせた。
「……っ、ん、…は、……」
心臓は跳ね、息は上がり、アイメリクは唇の端から無意識のうちに嬌声を洩らしてしまった。それに呼応するが如く、互いを繋ぐ生温い空気にエスティニアンから発せられる情が重ねられる。その熱に呑まれるようにしてアイメリクは、エスティニアンから注がれる口づけを幾度も受け止めた。
 二人の間に沈黙が流れ、エスティニアンは漸くアイメリクから唇を離した。
「っ……揶揄って、くれるな……」
困惑するアイメリクに、エスティニアンは顔を近付けたまま、息を潜めて告げる。
「……いいや、これは『契約』だ。忘れるなよ。お前に背を預けられるなら……俺はお前の野望を果たすためにも、もっと派手に空を跳んでやろう。」
フン、と鼻先で嗤い、エスティニアンはアイメリクを解放した。
 エスティニアンは普段の調子で、だが覚えたての呼称で、「じゃあな、友よ」と言い残す。アイメリクを一瞥し、後ろ手でばたんと扉を閉め、何事も無かったかのように去ってしまった。——アイメリクの喉元を一筋の冷や汗が伝う。背後では窓が風に叩かれ、ばたばたと音を立てる。隙間風がひどく鳴いたかと思うと、蝋燭の灯りが四方にぐらぐらと揺らめき、フッ、——と消えた。