たまごはいつ孵るかしら。
赤き子竜は、父の巣で温められている卵たちの周りを、くるくるととびまわる。
まちどおしいわ。まだかしら。ねえ、にいさん。
黒き竜は、すう、と飛び上がり、父と四つの卵たちをみおろす。
ああ。まちどおしいな。いかなるつばさたちであろうか。
黒き竜のこころには、喜びが広がっていった。この父の子らであるから、きっとみな父に似て、つよく賢く育つにちがいない。黒き竜は、父のことがだいすきだった。黒き竜は、大きくなったら父のようになりたいと思っていた。
妹の赤き子竜とは、よく話し、よく一緒に空をかけた。飛び回る鳥や、大きな動物、すばしっこい魚などをとってあそんだり、たべてみたりした。いちにちの終わりにはともに星をながめ、いちにちの始まりには朝焼けの空をさんぽした。黒き竜は、妹が大好きだった。どこまでも深い愛で、妹を大切に想っていた。
それでね、それでね……
赤き子竜は、おしゃべりがだいすきだった。黒き竜にいつも、うれしそうに話をした。黒き竜はその話に、しずかに耳をかたむけた。
きいて、にいさん。あのね……
夜明けの気配につられて目が開いた。
魂に遺された記憶。胸には、夢の中で感じた温かな喜びが広がっていた。俺の魂とニーズヘッグの魂の間に隔たりはなく、俺たちはふたりでひとつだった。
いつか生まれ来る兄弟姉妹を愛おしみ、父を敬い、妹を慈しむニーズヘッグ。そのかけらは時々こうしてめざめた。俺は夢の中で、ニーズヘッグの兄弟姉妹となんどか巡り逢った。夢からさめたあとの俺の意識は、すっかりニーズヘッグのきおくにあてられていた。自分が自分でないようだ。
「おはよう」
部屋のドアが開き、黒髪の男が入ってきた。
俺は、自分の意識の糸をつかんで、たぐり寄せる。
これは、アイメリク。俺の旧友。
俺はベッドから這い出て、ベッドの縁に腰掛けた。
「飲むか?」
「ああ」
旧友からグラスを受け取って、アイスティーを口にふくむ。サベネア産独特のハーブの香りが鼻を抜け、俺の意識はしだいに輪郭をあらわす。
旧友が、ふ、と笑った。
氷色の瞳はほそく、唇は弧をえがいていた。アイメリクの、はかないえがお。
「髪を梳かそうか。」
「ああ、頼めるか」
アイメリクは、トランクから櫛を取り出した。エスティニアンのとなりに腰掛け、からまり合う髪のたばを取って、くしでほどきはじめた。めったに髪の手入れなどしないもので、ときどき引っかかって、後ろに小さく引っ張られた。
「綺麗だな、羨ましいよ。」
「お前の髪も、夜に似ている。」
「私が夜なら、お前は月光だな。」
月光。いちにちの終わりに見る星々のなかで、やさしくたたずむ丸いひかり。
いや、これはニーズヘッグのきおくか。俺のものじゃない。
髪を梳かされると、己の身体のかたちがわかる。俺には黒々とした翼もなければ、赤き瞳もない。あるのはアイメリクの言う月光色の伸ばした髪と、土気色の肌だけだ。我の肉体に比べれば、奴の肉体はあまりに脆い。
——我?
俺なんだかニーズヘッグなんだか、再び身体のかたちがぼやけてゆく。
「今朝は随分ぼんやりしているじゃないか。疲れが出たか?」
「いいや、問題ない。」
髪を梳かし終えて、アイメリクが俺の肩に触れた。俺は奴の手を取って、腕の中に引き寄せる。
間近で氷色の瞳と視線がかち合う。俺は、奴の唇へ俺の唇を小さく擦り合わせる。
湧き上がるのは、奴への情。どこまでも深くおちてゆくような汚らしい情が、愛のふりをして、俺の心に居座る。
これは、ニーズヘッグのものではない。これが、俺だ。
俺は奴から唇を離した。腕からアイメリクを解放して、奴の笑みを眺める。
「優しいな、今朝は」
奴は俺の髪に手を伸ばし、俺の頭を引き寄せる。今度は奴の唇が、俺の唇に触れた。
唇を重ねながら、しばし、俺の情が心の中で渦を巻いてゆくさまに意識を向けた。これは、ニーズヘッグの持たぬもの。俺だけがもつ、アイメリクへの暗き感情。慈しみも敬意もへったくれもない。だが、これが俺だ。実に人間らしいと思うだろう。
ベランダに出ると、朝焼けの空が広がっていた。
「少し、歩くか」俺の誘いに、アイメリクが頷く。ベランダを、風が吹き抜けた。夜に冷やされていた空気も、朝陽に照らさればたちまち生温くなる。汗が背に滲み始めた。
俺たちはお前らのように飛べはしないが、どこまでも歩いて行ける。お前らに比べればひどくのろい散歩だろうが、文句は言うなよ。
俺たちは砂浜に降りて、裸足で歩き始めた。今日は、どこへ行こう。
[終]
