或る男の幸福

 アイメリクは着ぐるみの胴を抱え上げ、抱きしめた。丸いドームのように膨れた腹周りに腕を回しているのはこちらの方だが、まるで自分がゾウの方に包み込まれているかのような幸福感が全身に拡がり、心がするするとほどけてゆく。アイメリクは細く長いため息をついて、着ぐるみを抱いたまま床に腰を下ろした。着ぐるみも、脚を投げ出してぺたりと座り込む。その格好、そのシルエットはなんとも言えぬ愛嬌があり、アイメリクはますますこのゾウのことが好きになった。
着ぐるみの胸元に鼻を寄せて、すう、と息を吸い込んでみる。ああやはり、とアイメリクは思った。乾いたばかりの染料の香りに混じって、甘みのある煙のような香りが微かに残っている。このゾウの着ぐるみは、きっと香の煙がもうもうと焚かれ浄化された場所で、きっと頭から肩から、ざばざばと染料をかけられて蒼色に染まっていったにちがいない。そうして陽当たりの良い場所に連れて行かれると、染料は纏った香を食み食み、じっくりと乾いていったのだろう。アイメリクはそのさまをうっとりと想像し、座らせた着ぐるみの胴にゆったりともたれかかった。
アイメリクは着ぐるみの仮住まいであった木箱から、一枚の紙切れを取り出した。
「俺は既にサベネアから依頼を受けている。
そいつは、ゾットの塔で造られた偽の神を討伐した証と引き換えに貰った着ぐるみだ。お前にやるついでに、青色に染めさせた。そんなに客寄せ要員が欲しけりゃあ、お前がそれを着て街角の人気者になれよ」
何度読んでも妙案だ。客寄せはともかく、これを着ていれば、冒険者たちに気を遣わせずに街を歩くことができよう。自ら冒険者居住区を散策できるなんて、想像しただけで心が躍る。他国の冒険者居住区には、その国の建築様式に依らない珍しい家々も建っていると聞く。この愛らしい姿ならば、イシュガルドに完成した新たな冒険者居住区に思い思いの家々が建っているさまを、ゾウの眼を通してじっくりと見て回ることができるではないか。冒険者たちはイシュガルド・ランディングから飛空艇に乗り、クルザスの各地に足を踏み入れて、人々の依頼に応えてゆく。そうして一日を終え、疲れて帰ってきた冒険者たちを癒すのは、広々としたスノースティーブ浴場!冒険者たちの笑顔を間近で見られる日が来るなんて、誰が想像しただろう!アイメリクは鈴を転がしたように笑い声を上げ、ゾウの頭を膝に乗せた。そして、そろりそろりと被ってみた。頭の中を見回してみる。中は真っ暗な空洞だが、ちょうどゾウの瞳や口元の辺りから、光が差している。なるほど、この辺りで視界を確保すると良いらしい。喜びがじわじわと込み上げてきてしばらく被っていると、まるで自分ではない何かになってゆくような、不思議な心地が心を巡っていった。つぎにアイメリクは、座らせた着ぐるみの中におそるおそる足を踏み入れる。エスティニアンからの手紙は木箱の中にはらりと落とし、ゾウの脚に自分の脚を片方ずつ入れてゆく。とくとくと高鳴る鼓動に背中を押されるようにして、着ぐるみの中にどっかと腰掛けた。アイメリクはついに、着ぐるみの中に身体をすっぽりと収めた。そして、ゆっくりと立ち上がった。頭に、肩に、膝に、腰に、鎧とはまた異なる、今までに感じたことのない重みが伝わってくる。試しにその場で足踏みをしてみる。大きく腕を振ったとて、頭がぐらつくことは無いらしい。腕は案外よく動かせるようにつくられていて、手を上に上げることもできた。アイメリクは上げた手を、左右に大きく振った。やあやあ、おはよう。いってらっしゃい。きっとこの蒼いゾウは、見送りにゆったりと手を振るだろう。その愛らしさに冒険者たちは口元を綻ばせる。やあゾウさん、行ってくるよ。これから魔物の討伐でね、うまくいくよう祈っていてくれよ!なんて。想像しただけで、心に温かいものが溢れてゆく。着ぐるみを着たまま、飛んだり跳ねたり、座ってみたり。胴を左右に捻ったり、腰に手を当ててみたり。まるで靴を新調した少女のように踊ってみたり。「お前がそれを着て街角の人気者になれよ」。アイメリクは、やはり妙案だ、と思った。着ぐるみの中は動くたび暑くなっていったが、この冷え冷えとした風が吹きつける山都イシュガルドにおいては、多少暑いくらいが丁度いい。
アイメリクは決意した。これを着て、冒険者居住区を警備しよう。ちょうど従騎士の頃、アイメリクは皇都の巡回警備を行っていたことがある。その頃のような新鮮な気持ちで、民の安全を守り、民と交流を図り、民の幸福を願うのだ。アイメリクは名残惜しげに着ぐるみの頭を脱ぎ、床に腰を下ろして、ほかほかになった胴から滑り出た。息苦しかったのか、室内の空気がほんの少し美味く感じた。なるほど、新鮮な空気を十分に取り込むことは難しいらしい。そこには流石に不安を覚え、警備の時間はあまり長くならぬようにと決めた。
アイメリクは思う存分、着ぐるみの胴を抱きしめた。よろしく頼むよ、我が幸福の蒼いゾウ!アイメリクは心の中でそう呟いて、着ぐるみの頭を愛おしげに抱え上げると、ゾウのつぶらな瞳ににっこりと笑いかけ、短く伸びた鼻先に小さくそっと口付けた。