病室の窓辺に、花が飾られている。細い花瓶に一本、黄色く小さな綿のような花が、全身で春を謳っている。花はこまめに替えられているのか、入院当初はペリウィンクルだったのが、気がつくとミモザに替わっていた。
その花を背にして、私は病室を後にした。ドラゴン族にやられた傷も全身の痛みも、一週間で治してしまうのだから、治療師たちはさすがだ。
治療師たちは、慌ただしくワゴンを押して廊下を渡ってゆく。まだ治療が終わっていない患者が多数いるのだという。病院長は水の入った大甕を廊下の奥に下ろし、その後ろから足早についてきた司祭が手のひらを合わせたまま突き当たりの病室に入っていった。清めの儀式を行うのだろうか。重症に苦しむ騎士を、不憫に思った。
目の前で過ぎゆく時は速いのに、自分の中ではゆっくりと時が流れている。私が入院していたのはたった一週間だというのに、世界から切り離されて、時の中を漂っているような心地がした。とはいえ、いつまでもぼんやりしているわけにはいかないだろう。治療師に言われた通り作業場に行き、修理が終わった鎧を受け取った。
「あ、おい、アイメリク」
奥に詰めていた甲冑師の翁が顔を出し、踵を返した私を呼び止めた。
「竜騎士候補生の四番が……」
「四番は……エスティニアンですか」
「そう、あいつがお前を探していた」
「ありがとうございます」
アイツに入院したことを知らせられぬまま一週間が経ったのだ。私を探すのも無理はないか。だが、やるべきことは山積みだ。鎧に袖を通して、まず隊長の元へ退院の報告に向かった。
緊迫感漂う中、隊長の「よくぞ戻ってきてくれた」との言葉を聴いて、少しずつ頭が目醒めてゆくのがわかった。思考の回転数が上がり、周囲の景色から得るべき情報がだんだんと頭に入ってくる。察するに、隊長はあまり眠れていないようだ。私以外にも数名が病院に送られた。責任を感じておられるのだろうか。隊長曰く、他の隊も仲間がやられていたが、復帰者が増えてきたため、近々哨戒のための遠征が行われるとのことだ。遅れを取るまいと、背筋が伸びる思いがした。
「アイメリク、よろしく頼んだぞ」
「ハッ」
「そうだ、一昨日、竜騎士候補生の男がお前を尋ねてきたぞ」
「もしや、エスティニアンではありませんか?」
「そうかもしれん、銀髪の男でな。お前の居所を知りたがったので、入院していると言っておいた」
「それはお手数を……。ありがとうございます」
二度もエスティニアンの名を聞くとは思わなかった。多少は心配していたということか。可愛らしいところもあるものだ。
それよりも、鈍った身体を動かさなくては。私は訓練場に赴き、木人を相手に剣をふるった。やはり一週間言われた通りに眠っていたぶん、関節の動きが固くなっている。身体の不具合を探りながら一度剣を置き、肩慣らしに格闘訓練を行ったのち、また剣の稽古を始めた。
「アイメリクか!」
階段上の人影が左右に手を振る。目を凝らすと、それは隣の隊の仲間だった。知った顔を見ると心が解れ、焦る気持ちが少し紛れた。
「久しぶりだな。退院したって聞いたから、そろそろ稽古をやっているだろうと思って、来てみたよ」
「それは嬉しいな。一緒にやるか?」
「ああ。手加減してくれよ、腕がもげちまう」
笑いながらも間を開けて向かい合い、剣と盾を携えて息を整える。剣の切先がぴたりと止まり、鋭い眼光がこちらを射抜かんと突き刺さる。緊張の糸が、ぎりぎりと音を立てて限界まで引っ張られた。
「戦神ハルオーネよ、」
「ご照覧あれ!」
矢の如く互いに飛び掛かった。剣が交わって鋭い音を立てた。押し負けてなるものかと力を込めると、金属の震えが手のひらから腕へ背中へ頭へと駆け登る。押し返される力を利用して一度飛び退き、再び走りながら近づいて切先を相手に真っ直ぐ差し出した。その剣を払わんと下から剣が交わる。払いのける動きに乗ってこちらも剣を掲げ、彼の僅かな隙をつき脇腹に向かって切先を突き立てた。辛うじてその剣は、彼が慌てて構えた盾の窪みに刺さっていた。その後も体勢を立て直し、激しい攻防が続いた。
「休憩! 本当に病み上がりか?」
「さっき退院したばかりだよ」
「信じられんな……」
剣と盾を地面に置き、彼は座り込んで脚を崩した。
「そういえば、お前とよくつるんでる顰めっ面の銀髪のアイツ、ここに来たよ」
「エスティニアンか。いつ?」
「うーん……四日前くらいか……俺もその時はお前が入院していたとは知らなくて、知らないって言ったらさ」
「そしたら?」
「どうも、とは言ったがな……俺を鋭〜く睨んで、舌打ちよ!」
「あはは、彼のやりそうなことだ! 悪かったね。代わりに謝らせてくれ。すまなかった」
「別にいいんだけどよ、目で殺されるかと思ったね」
「ふふ。すまない、本当に。アイツがいつか多少なりとも友好的に振る舞うことを覚えたら、歓迎してやってくれ」
「どうかな。まぁ、お前に免じて考えておくよ」
それから彼にあれこれと尋ね、ここ一週間の神殿騎士団全体での出来事の確認を行い、私は訓練場を後にした。
夕陽だ。ガラス越しに、光が廊下に降り注ぐ。
窓に近づくと、茫洋とした雲海が夕陽の色を受け止め、穏やかに波打っていた。
エスティニアンのことが頭を過ったが、あれは私が探したところで捕まる男ではない。逢いたければ、アイツがいつのまにか私の隣に来るまでわかりやすい場所で待つ必要があった。この後、きっと夕飯の席で逢えるはずだ。もしエスティニアンを見かけたら声をかけてやろうと決め、私は寮に続く廊下を歩き出した。
「あら、アイメリクさん、」
すれ違いざまに、治療師の女性に呼び止められた。また、エスティニアンが探していたと言われるのだろうか。
「病室のお花を、ご覧になった?」
思いがけない話題に、私はすっかり拍子抜けしてしまった。
「ええ、ありがとうございます。ペリウィンクルも、ミモザも、癒しになりました」
「そう言ってもらえて嬉しいわ。ミモザの贈り主は聞いた?」
「いえ……どなたかが?」
「竜騎士候補生の、エスティニアンさんよ」
「えっ?」
予想外の人物だ。エスティニアンの舌打ちでも一睨みでもない振る舞いにすっかり驚いて、口を閉じるのを忘れてしまった。
「あなたが眠っていたから、花を生け替えて帰ったと聞いたわ」
「あの、まだ、花は病室にあるでしょうか」
「ええ、皆てんてこ舞いだから、残っているはずよ」
「ありがとう。後ほど、お邪魔いたします」
エスティニアンが、花を? 私のために? 三年前の一件以来任務以外の日はほとんど毎日顔を合わせ、話をしてきた。それなりに付き合いが長くなってきたと思っていたが、アイツの知らない一面を見たような気がした。花?
入院していると知らせたのは、うちの隊長だったか。隊長の入れ知恵だろうか、それともまさか、自分の意思で?
本当に? 彼が花を? 信じられなかった。そんなに気の利くようなことをする奴だっただろうか。どこで買って、いつの間に。ミモザに替わっていたのは、昨日か一昨日か、その辺りだ。いつ病室を訪れた? 声を掛けてくれればお前のためにいくらでも目を覚ましたものを、なぜ。彼なりに気を遣ったのだろうか。
進行方向を変え、再び神殿騎士団病院に向かった。あの愛らしいミモザを引き取ったら、どうしよう。寮に生けようか。それとも本に挟んで押し花にして、額縁に飾っておこうか。あれこれ考えながら歩いていると、あっという間に病室に辿り着いた。退院したばかりなのにもう戻ってくるなんて、まるで今日見送った時が丸々ひっくり返ったようだった。
窓辺では、ミモザが頭を垂れていた。夕焼けの色に負けじと黄色を輝かせ、ここにいるわと私に訴えかけていた。花瓶からミモザを取ると、彼女は安堵したように私の手のひらで黄色を横たえた。
健康な騎士は、病院ではなかなか居心地が悪い。花瓶を濯いで窓辺に戻し、私は足早に病院を立ち去った。
それから知った顔とすれ違うたび、エスティニアンに逢えたか、エスティニアンが心配していたぞと聞かされた。それらの顔ぶれは的確で、私が知っている者をエスティニアンが把握しているらしいことに驚いた。そして、私が想像していたよりもずっとエスティニアンはたくさんの者に声を掛け、私の安否を案じていたようだった。
とても好ましく、喜ばしい。周りと関わろうとしないあの男が、嫌々ながらも周囲に情報を求め、私の居場所や安否を知りたがったのだ。愛らしいことこの上ないじゃないか。
彼が私を探したように、私も彼を探してみようか。次に誰かから声を掛けられたら、エスティニアンを探す手がかりを尋ねてみよう。
案の定、また私は寮の自室のすぐ近くで、知り合いに呼び止められた。
「お前、どこ行ってたんだ?」
「負傷してしまってな、一週間ほど病院にいた。もうすっかり治ったよ」
「そいつはよかった。一昨日、エスティニアンが探してたぞ」
「ふふ、そうか。詰所に行っても逢えないだろうな」
「ああ。そもそも槍の奴らは哨戒任務で昨日の夜明け前に出たから、今はまだ本部にはいないはずだ」
「そうか……。しかし昨日出たなら、今夜あたりには帰還して、逢えるかもしれないな。ありがとう」
胸の奥に灯りが燈る。温かくて、柔らかな光だ。
エスティニアン、どこにいる。今、どこで何をしている。
私を探してくれていたのだな、ありがとう、花もとても嬉しかった、愛らしい花だな、どこで買ったんだ、来てくれたのなら遠慮なく起こしてくれ、お前の方からやってくるなんて珍しいのだからな、随分たくさん声を掛けたらしいな、嫌な顔はされなかったか、皆快く教えてくれたか、甲冑師にも尋ねるとは考えたな驚いたよ、うっかりお前を愛おしく思ってしまった、ますますお前のことが好きになったよ——言葉は頭の中にとめどなく溢れ続ける。待ち遠しくなって、私は神殿騎士団本部前広場がよく見える二階の窓辺にもたれ、階下をじっと見下ろした。
誰かに探されているというのは幸せだ。エスティニアンは毎日私を探していた。入院した日の晩にまず数名に声を掛け、次の日にまた他の者に声を掛けるも情報が得られず、五日前も振られ、四日前にまた知らないと言われてとうとう痺れを切らし、舌打ちを残して帰ったか。
私が入院していると知ったのは、一昨日のことだった。それまで、どれほど心細かったことか。昨日の夜明け前に任務に出たのだから、花を買ったのは一昨日だろう。出立前で慌しかったろうに、彼は私の病室へミモザを生けに来たのか。
エスティニアンが私をどう思っているかは知らないが、私は彼の思いに「愛」と名付けたくなった。胸が締め付けられるような思いがして、エスティニアンに早く逢いたくなった。
「よう、アイメリク」
広場を見つめる私に、背後から声を掛ける者があった。また、エスティニアンが探していたとの知らせだろう。私は広場を見下ろしたまま、返事をした。「どうした」
「飯の時間だろう。行かないのか?」
「ああ。槍騎兵は、哨戒任務に出ているらしい。エスティニアンが帰ってくるのを、待ちたくてね」
手のひらに乗せたミモザの葉や茎を、そっと撫でた。それらはほっそりとしていて、はらはらと崩れてしまいそうだった。
「竜騎士候補生は別行動だが? 一時間ほど前に、帰還した」
「えっ? あ——」
振り向くと、そこにはエスティニアン本人が立っていた。驚いて言葉を失っていると、エスティニアンは窓辺に寄りかかり、階下を見下ろした。
「飯、行くぞ。腹減ってるだろう」
ああ、エスティニアンだ。銀髪の、顰めっ面の、竜騎士候補生四番。私とよくつるんでいて、ミモザをくれた、私の愛する友人。彼に伝えたい言葉が、たくさんある。言葉が口の中いっぱいに膨れ、私はそれを順番に出すので必死だった。
「エスティニアン、私を探してくれていたのだな! 皆が私に、お前が私を探していたと教えてくれたよ」
「やめろ。その話はもうナシだ。病院にいるとは考えもしなかった」
エスティニアンは手のひらで額を覆い、被りを振る。顔が微かに赤らんで、彼の口からため息が大量に流れ出た。どうしてそこまで恥ずかしがることがあろうか。柄にもないことをして、我に返ってしまったのだろうか。
「ふふ、見舞いにまで来てくれたのだな」
「ああ、クソッ」
エスティニアンは片足で床を鋭く打った。こうも照れてしまうとは、彼はどうしてしまったのだろう。
「腹が減った! 行くぞ」
「ああ、また隣に掛けてもいいか」
「来るな、もう」
私が歩き出すと、エスティニアンは私と歩幅を揃えて歩いてゆく。あまり気が付かなかったが、彼はいつの間にか、私の存在を意識して行動しているようだった。まるで、親友のようじゃないか。私は嬉しくて、エスティニアンの肩に自分の片腕を回した。
「おい、歩きにくい……」
「だろうな。だがどうか喜びを表現させてくれ。おかえり、エスティニアン」
エスティニアンの溜め息が聞こえたのも構わず、私はエスティニアンの肩を抱き続けた。鎧はまだ春の夕風に冷えていて、彼の任務の道のりを物語る。
いつか落ち着いたら、「アイメリク探しの旅」の思い出でエスティニアンを揶揄ってやろう。彼から受けた深い愛は、大切に心の宝箱に仕舞っておこう。それから、それから。やりたいことが次々に浮かんできたが、今は、共に食堂に向かうこのささやかな喜びを噛み締めるとしよう。
