『ハルオーネの道行き』。夜空に青緑色のヴェールが架かる現象をして、誰かがつけた名が仲間内で広まり、あれはそう呼ばれている。
第七霊災後から現れるようになったそれは、次の観測条件を満たす必要がある。「快晴の日の夜、雲一つない夜空」。雪に鎖されたクルザス地方に快晴の昼夜が来る確率は低い。哨戒任務にあたる騎士たちは皆、前日の晩から空を見上げて祈り、澄んだ青空を心から待ち望んだ。
アイメリク率いる分隊が出立する前日の晩は強く吹雪いていて、とても『ハルオーネの道行き』など観られる気配は無かったが、今朝は蒼く澄んだ空に恵まれた。皇都からクルザス西部高地に向かってチョコボで飛び立つ時、仲間の一人は、眼前に広がる雲一つない蒼に涙した。
「今日は観られるかもな」「来るぞ。こんなに晴れた夜は滅多に無い」未だ西方向に薄らと薄青が残っている。焚火を囲みながら、皆がそわそわと空を見上げ始めた。星は零れ落ちそうなほど眩く光り輝き、月は目を細め、星々を見守っている。「ハルオーネよ……」数名の騎士は、天を仰ぎ戦神に祈り始めた。ハルオーネは、まだクルザスの子らを見捨ててはいない。第七霊災で終わらぬ厳冬と救えぬ命の終わりを目にして絶望したクルザスの人々にとって、あの天から降る青緑色のヴェールは、燦然と輝く希望だった。
焚き火を囲みながら談笑し、空を見上げてハルオーネの訪れを待ち望む。胸を踊らせる部下達に目を細め、神殿騎士団コマンドのアイメリクは早々にテントへ引っ込んだ。その姿を見た若き騎士達は、アイメリクのテントを指差して顔を見合わせ、表情を曇らせた。
アイメリクの背を追ったのは、分隊に同行していた竜騎士団のエスティニアンだった。「チッ……世話が焼ける!」髪紐を解いて二、三頭を振ると、彼の肩や背に銀の小川が流れ落ちた。彼は雪に足を引っ掛けられながらもずんずん歩いた。アイメリクのテントは、他の騎士よりも一つ離れたところにある。エスティニアンは、テント入り口の垂れ幕を鷲掴みにすると、「おい、俺だ。開けるぞ」勢い良くそれを押し上げた。アイメリクは、革表紙の本を膝の上で開いたまま、目を白黒させた。
「エスティニアン、何か用か…?」
「今夜、『ハルオーネの道行き』が観られるらしい。観に行かないか」
アイメリクは眉根を寄せると片膝を立て、本の小口を親指の腹でぱらぱらとなぞった。
「そういうことは若い者に任せておけ。」気乗りしない様子で、エスティニアンに顔を背けた。コマンドになってからというもの、アイメリクは変に神を信じなくなった。もとより神に期待しない性質であったが、ここ最近は、力だけが我が友といわんばかりの不信心ぶりを見せることがあった。エスティニアンにだけ、父親の説く教義やその周囲に居る者たちがうっとりと語る父親の様子に寒気がする、と零した夜があった。アイメリクが神の力ではなく民ひとりひとりの力を信ずるようになる、少し前のことである。
「年寄りぶるな。行くぞ」エスティニアンはテントに片脚を突っ込んでアイメリクの手首を掴むと、力任せに引っ張った。アイメリクはテントから引き摺り出され、雪の上に倒れ伏した。
「年寄りぶりたいなら、行って民の無事でも祈ってやれ。」「神に祈れと?」「運に祈れよ。そう見られんものが見られるんだ。誰の運だか知らんが、あやかっておいて損はないだろう?」「……敵わんな、お前には。」アイメリクは力無く笑みを浮かべると、エスティニアンが差し出した手を掴み、冬眠から目覚めたばかりの熊のようによろめきながら立ち上がった。全身についた雪を溶け切らぬうちに払い、手首を掴まれたままエスティニアンの後に続いて歩き始めた。
アイメリクは努めて真っ直ぐに脚を下ろし、雪を踏み締める。足取りは決して軽いものではなかった。
「『ハルオーネの道行き』を、誰よりも楽しんでやれ。お前がテントに引っ込むと、下の奴らが遠慮する。」
「私が引っ込めば、皆が私に気を遣わずに済み、遠慮なくこの場を離れられると考えたのだが……」「急な寒さで頭がいかれたか?隊の者に規律違反紛いの行為をさせるな。……おい、アイメリク分隊長は『ハルオーネの道行き』に祈りを捧げるべく、少しの間、この場を離れるそうだ!」エスティニアンは騎士たち全員によく聞こえるよう声を張り上げ、辺りに告げた。夜空とアイメリクのテントを交互に見ていた騎士たちが、ぱっと表情を輝かせた。誰もが口元を綻ばせ、目を細めて顔を見合わせた。「お前たちも各々観に行って、民の無事とイシュガルドの繁栄を願って来いと仰せだ!」アイメリクが大きく頷くと、若き騎士達は威勢の良い返事と共にすっくと立ち上がり、数名のグループを形成しながらあっという間に散らばっていった。拠点には、以前の任務でハルオーネの道行きを見たことがあるという料理番たちが数名残った。エスティニアンはそれを横目で確認し、アイメリクの手首を緩やかに引いた。
「観に行かないか?」
エスティニアンは星空の下にアイメリクを招いた。アイメリクは小さく頷いて一歩を踏み出し、エスティニアンと共に並んで歩き始めた。
夜が深まっても、雪がぼんやりと光を放っているお陰で辺りは明るい。故に幸いランプを持たずとも充分遠くまで歩いて行けた。ゴルガニュ牧場を臨む小高い丘、長く緩やかな斜面を下る。歩くたび、ざく、ざくと雪を切る音が二人の耳をくすぐった。牧場には人気こそもう無いものの、大きく丸められた干し草が転がっていた。「懐かしい。ああいうのを、俺も親父と一緒に作ったもんだ。」エスティニアンはアイメリクの手首から手を離すと、一人柵まで近付いていった。柵の外から干し草に手を伸ばしてみると、表面が薄く凍っており指が滑り落ちた。表面をつついて氷を壊し、指を深く突っ込んでみると、丸めた草の奥に必ずあったあの太陽の熱は寒さに奪われ、塊は底の底まで冷えていた。幼い頃はこの干し草の塊を触る度生き物の強き生命力を感じたものだが、この塊は、静かに死んでいた。小さく丸まったエスティニアンの背を、アイメリクは離れた場所で見守り続けた。
「向こうへ、行ってみよう。」アイメリクは南を指差す。「そうだな」二人は、ゴルガニュ牧場に至る道を逆さに進み、牧場正面の階段を下っていった。『冷たい』『寒い』と書かれた風が鼻を掠め、鼻先はたちまち真っ赤に染まった。様々な息吹を閉じ込め圧縮した匂いが微かに体内に流れた。
リバーズミートに向かって丘を下りてゆくと、凍りきったクルザス川の中流に差し掛かった。「もうここに水が流れることは、ないのだろうな。」以前は子どもがこの川を飛び越えて遊ぶ姿や、鳥、羊、牛などが口を付ける姿などがよく見られたものだ。今は、口をつけるどころか、大人二人が歩いて渡れてしまうほど、深々と凍っている。
「霊災を生き延び、コマンドの職に就いた者として、如何にあるべきか…考えている。」
アイメリクは川辺にしゃがみ、凍った川を指先で撫でながら、ぽつり、と零した。
「目先の些事に囚われんことだ。コマンドで神殿騎士を終える訳でもあるまいに」
さすがだな、と零し、アイメリクは小さく笑った。エスティニアンほど、自身の目的に純粋で、大義のために突き進む者はいない。そのエスティニアンの眉が下がっているのを見て、アイメリクはまたくすくすと笑った。笑うアイメリクに文句を言いたげに眉根を寄せたエスティニアンの顔を見て、アイメリクは堪らず声を出して笑った。エスティニアンは苛立ちを呆れで包み、ため息をついた。
「行こう。間もなく『ハルオーネの道行き』が見られる頃合いだ。」アイメリクは水面に視線を落としたままゆっくりと立ち上がった。クルザス川の凍った水辺を眺めるアイメリクの瞳は、川の氷を吸ったような色で、夜の闇に溶けることも凍り付くこともなく、澄んだまま穏やかだった。
二人は川沿いを下りながら、宛てのない旅を続けた。アイメリクは、月を追わんと顔を上げた。
「……あっ、」
「おお」
『ハルオーネの道行き』だ。
星々が煌々と輝く空に、『ハルオーネの道行き』があった。
あれはまさに、クルザスの星空に足をつけたハルオーネが、衣服の裾を引きながら歩くさまだった。その裾の輪郭まではっきりと見える。きらきら、と揺らめいて、ふわり、ふわりと闇を照らしながら靡いてゆく。
「もっと高くへ!」「ああ」二人はハルオーネの後ろ姿を追って、駆け出した。じっとしてはいられない。歩いてもいられない。ハルオーネに呼ばれたような、ここで立ち止まってはならないような、堪らない気持ちで、走った。南西に向かって川をどんどん下ると、追っていた川はクルザス川の大河と合流した。二人は尚も走り続け、船着場に背を向けて付近で最も高い岩を目指した。
「登るぞ、アイメリク」
「そうしよう」
北方向にダスクヴィジルの城壁、西方向には臥竜島。岩は高く迫り出しており、岩の中腹までは雪を踏んで駆け上がる。中腹を越えてしまえばあとは頂上をめざすのみ。頂上までは足を滑らせなければ登れそうな様子だった。二人は一目散に駆け、雪を蹴ってあっという間に中腹まで辿り着いた。腕防具をよく確認し、岩の僅かな窪みに手足を掛けて、慎重に上ってゆく。傾斜が十分にあったお陰で、幹部候補生、竜騎士候補生の時分ほど苦労はしなかった。多少息を切らしつつも岩を登り切り、二人は『ハルオーネの道行き』を再度確認した。
なんそうものみどり。いくつものあお。ハルオーネの裾はさらさらと風にそよぎ、この道行きに出会えたクルザスの子らは、ハルオーネに頭を垂れる。神の存在そのものを否定しつつあったアイメリクでさえ、『ハルオーネの道行き』の前に跪き、恭しく頭を垂れた。エスティニアンはその場に腰掛け、腿の上で両掌を合わせた。
「ここが最も高い場所だろうか…」
「人の足で登れる中では、なかなか良いんじゃないか」
ぽつぽつと言葉を交わした後は何も語らず、ただ穏やかに整ってゆく呼吸を聴きながら、二人は岩の頂上に座り続けた。エスティニアンは横目でアイメリクの様子を確認し、再び夜空へ視線を移した。少し腰を浮かせて、体重を移動させ、エスティニアンはアイメリクの背に己の背を寄せた。アイメリクは、鎧の上からでも伝わるエスティニアンの体温に目を細め、甘やかな溜息を一つ洩らして、彼の背にしなだれかかった。エスティニアンはアイメリクに頭を預け、アイメリクの肩に己の髪を落とした。
どれほど眺めていただろうか。
ハルオーネの道行きは少しずつ闇に融け始めた。
「旅立つのだろうか」
「いや、見てみろ。こちらに移動してはいないか」エスティニアンが指差した方向に、新たなみどり、新たなあおが揺らめいていた。その様はまるで、ハルオーネが夜空を横断してゆくかのようだった。融けだした裾は端からすっかり闇に流れ出し、ハルオーネが歩む如く、対岸の空に彼女の裾が現れ始めた。
「ゆえに、『道行き』か…」ふ、と吐いた息は白く、風に霞んでたちまち飛び去った。ハルオーネの裾に触れられそうなほど高くに居るのに、実際に手を伸ばしてみても、星の一つも掴めはしない。アイメリクの手は宙を掻いて、雪上にぱたりと落ちた。
「エスティニアンは、何を願う?」
「仕方ない……お前が組織で伸し上がってゆくその道に、光あれと、祈っておくか」
「ならば私は、お前の無事を願おう。いついかなる時も、必ず愛しい者の傍に還れるよう。」
「それは良い。好いな。お前が事を成し遂げ、愛する者の傍に還りたくなった時、愛する者が変わらずそこに在り続けるよう、祈るとしよう」
エスティニアンの手は腿から雪上へと滑り落ち、アイメリクの手を探した。アイメリクはその気配に気が付き、手の甲でエスティニアンの指に触れた。二人の指がぎこちなく重なって、親指が交わる。エスティニアンは、アイメリクの手の甲に己の手を乗せ、指と指の間に己の指を滑り込ませた。アイメリクは再び甘やかな溜息を洩らして、小さく背を反らした。
「神に祈るなど、いつぶりだろうな。祈っても聞き入れられぬことばかりで、神の存在など忘れていた。」
「無理もない。だが、心の拠り所や、揺るがぬ軸として神を信じている奴がいる。お前がたとえ忘れていても、誰かにとっちゃあ、あれは忘れがたい大事な存在だ。特に、イシュガルド人にとってはな……蔑ろにするなよ。恨みを買うぞ」
「私を咎められるのはお前くらいだ、エスティニアン。」
「光栄だが、俺の言葉しかまともに聞いちゃいない、の間違いだろう」
「ああ、その通りだ」
アイメリクはくつくつと笑って、エスティニアンの背に体重を預けた。エスティニアンは片膝を立て、体重を受け止めた。絡めた指を握りこむと、金属の擦れる音が小さく鳴った。体温を奪ってゆくような冷たく痛い温度が、エスティニアンの鎧に伝わっていった。
「ありがとう」
アイメリクの掠れた言葉は風にさらわれてたちまち消えてゆく。エスティニアンは返答の代わりに、指にそっと力を込めた。
ハルオーネはクルザスの透き通る星空を、ゆっくりと歩んでいった。たくさんのみどり、いくえのあおをまとって、その裾を靡かせ、彼女を愛するすべての子どもたちに祝福を与えながら。
