エスティニアンは、薄目を開けた朝陽に横顔を照らされながら、潮風亭の客席の隅で墨を磨る。それは、いつもの帳簿をつけるためではない。珍しく彼は、自分自身のために墨を磨っていた。
硯の陸に一ギル硬貨の大きさくらいの水を落とす。その水を、真っ黒な墨の塊で円を描くように磨ってゆく。力を込める必要はなく、弱い力で辛抱強く、ゆっくりと撫でてやるのがコツだ。硯自体が黒く見えにくいが、よく見ていると、段々と水に黒い筋が溶け出す。同時に、雨上がりの森のような、苔生した岩肌のような香りが漂い始める。
さら、さら、さらと墨を磨り続けるとき、エスティニアンの頭は空っぽになる。墨が溶け出すように、心臓の奥に巣食う言葉にならぬものたちが、さら、さらと落ちて墨に混じってゆくような心地がするのだ。懐かしい香りでもないのに、墨の香りは不思議と心を落ち着かせる。水がすっかり夜空の色になるまで、墨を磨る行為は続く。
出来上がった墨はすっかり墨池に流れ落ちていた。エスティニアンはその池に筆の穂先を浸して引き上げ、縁に沿わせて余分な墨を落とした。このちょっとした作業は丁寧にやらなければ、紙が墨でふやけてしまう。エスティニアンは陸に線を一筋引いて、墨の付き具合を確認した。そして、夜と朝の白んだ隙間のような色をした紙に、穂先をそっと落とした。
「帝国との戦闘が激化しているとのことだが、息災か。こっちは、ガレマール帝国大使館と治安維持部隊の赤誠組がピリピリしている以外は、いつも通りだ。
お前は、七夕という行事を聞いたことはあるか?最近、店先に笹がよく飾られている。笹は、青々とした細枝に、細く長い葉がついた植物だ。その笹に、長細い、願い事を書いた紙を紐でくくりつけて飾り付けをしていく。七夕はまぁ、星芒祭のような季節ものの行事で、その季節になると、色とりどりの紙が提げられた笹が、あらゆる店先に並ぶんだ。そいつが風に揺られると、さらさらと音がして、紙が回って綺麗なもんさ。
俺も願い事をしてきた。お前なら何を願う?そういやいつか、オーロラに願掛けをしたことがあったな。東方は、星や天に祈りもするが、特に強く願い事をする行事がこの「七夕」ってやつらしい。
夜になると、黄昏橋に人が集まって、皆で打ち上げ花火を楽しむ。クガネの港から少し離れたところまで船を出して、海から打ち上げているそうだ。俺が厄介になっている店は、二階辺りは入り口を開放して、花火を眺められるようにしてある。花火を観ながら酒が飲めるってんで、その席はすぐに埋まる。
星五月になると飾り付けは終わっちまうから、七夕の見頃は丁度今だな。
東方の旅は悪くない。目が開かれるからな。帝国でさえ行儀が良い。不可侵条約によって、帝国は船の動力源の補給を行う代わりにひんがしの国には攻め入らないことになっている。イシュガルドと違って、こっちは神々が多いのも興味深い。八百万の神らしいぞ。俺たちはせいぜいハルオーネと、何人かの聖人くらいだったろう。
価値観がまるで違う国にいると、イシュガルドにいた頃の俺がひどくちっぽけに思える。俺たちの千年戦争は、世界のほんの片隅での出来事だったんだと思わずにはいられん。それは俺を冷静にさせてくれるが、同時に虚しくもなる。イシュガルドでは先祖の犯した過ちが原罪となって、あんなに多くの命がドラゴン族に踏みにじられた。俺は故郷も家族も失った。戦争が原因で孤独の身になった子どもは俺だけじゃない、山のようにいる。そして俺たちもまた、多くのドラゴン族を屠ってきた。だがひんがしの国じゃあ、山の都で凄惨な戦いがあったことを民衆はあまり知らない。イシュガルド出身だと言えば、「第七霊災以来、万年冬らしいじゃないか。どうだい、こっちは暖かいだろう」ときた。だが、こっちにも竜がいると聞いていざ逢いに行ってみると、あの戦争は決して片隅の出来事ではないと確信する。俺たちの長い戦いについて悲痛な声で語り、ニーズヘッグの血が流れる俺を憐れみに似た目で見てくる。俺たちクルザスの民とドラゴン族は、共に当事者なんだろうな。あの戦争の重みを知っている奴に出会えると、ドラゴン族だろうが人だろうが、なぜだか安堵する。
話は変わるが、初めて米酒というものを飲んだ。こいつはうまいぞ。うんと冷やして飲むと、味も香りも最高だ。ヤンサ地方で収穫される米が上等で、そいつを使っているらしい。甘いんだが、お前が飲んでいるバーチシロップとは全然別物だ。米そのものの柔らかい甘みが生かされていて旨い。これが素材の旨味ってヤツなんだろうな。お前にも飲ませてやりたいが、お前はそれどころじゃあないだろうな。
先の神殿騎士団の出兵に加われとの要請だが、悪いが俺は力を貸さん。イシュガルド最大の戦力としての立ち居振る舞いは、もう俺を磨り減らすだけだ。それに、もうお前たちは、自分の足で歩んでいける。人はドラゴン族よりも、ずっと弱い。俺の力がなくとも、」
エスティニアンは、硯の陸に筆を休ませた。彼は、同じく陸で休んでいた固形墨を眺める。磨り減った角は丸くなって、水に濡れたおかげで艶やかにきらめていた。
配達士モーグリを通じて神殿騎士団病院から送られてくる小瓶をポケットから取り出して、液体を喉に流し込む。
「俺はとっくに、正気なんだがな」
憂いを滲ませた瞳が、書きかけの手紙をとらえる。エスティニアンは小瓶をテーブルに置くと、手紙の端と端を握って、——くしゃくしゃに丸めた。
潮風亭の会計所にも、笹があった。「生まれ落ちた命が等しく共にこの星で生きられるよう」、そう書かれた短冊が風に揺れ、笹の葉に触れてさらさらと音を立てた。
手紙はその後も、書かれては丸められ、また書かれては燃やされ、を繰り返した。そうして、エスティニアンの記憶には、かの友に宛てた手紙が何通も積もっていった。
