禁猟区

 

 ここは、彼の心の中なのだ、と思った。私はとうとう、入れるはずのないところへ、足を踏み入れてしまった。彼への憧れと、焦がれを抱いたまま。
 
 どういう流れでエスティニアンの家へ行くことになったのか、記憶は酔った頭と吹き荒ぶ雪に掻き消されていた。私は、彼と共に昇降機を使って官舎へと上り、人気の無い廊下を渡って、彼の自室に辿り着いていた。
 
「もてなしはできんぞ。何も無いものでな」
 急にひそやかになったエスティニアンの声に、私は慎重に耳を傾ける。彼は鍵を開けて、慣れた足取りで真っ暗闇に融けていった。廊下の方が余程明るい。私は扉を開けたまま、彼の様子を窺った。
 エスティニアンはマッチを擦ると、湯沸かし用の小さなストーブに火を入れた。暗がりに小さな光が灯る。私は安堵して、扉を閉め、部屋に入った。静けさがたゆたう部屋に、ストーブや薬缶の金属がぱち、からから、と弾ける音が響き始めた。静かに、とうながしたくなるほど、それらの音が騒がしく思えた。
「灯りはつけないのか?」
「見ての通りだ」
 エスティニアンは虚な声色でぽつりと呟いた。彼の昇ってゆく視線を追ってゆくと、天井照明が否応なしに私の目に飛び込んできた。あっ、と声を上げそうになるのを、慌てて飲み込んだ。
 それは、割れたままぶら下がった、亡骸の形をしていた。硝子の覆いは裂け、中の油差しは根本から折れてなくなっていた。
「何があった、」
「……干渉された」
 彼は壁にもたれて、訥々と、ことの顛末を話し始めた。
 
 ——ニーズヘッグは、竜の目の力を通してエスティニアンの心を蝕んでいた。エスティニアンが光に目を遣るとき、時折、光は緋色に燃え盛り、竜の目の形を現して耳鳴りのように彼に声を響かせ彼に干渉した。竜の目はいずこにありや、我の元へ還れ、と。
 光の中に邪竜の目を視るとき、エスティニアンの首筋には脂汗が伝う。心臓の鼓動は速まり、身体がずっしりと重くなる。緋色の光はぎょろぎょろと辺りを見回し、竜の目から力を奪った憎きイシュガルドの民を探し続けている。
『ハァ……ハァ……ッ』
 よりにもよって、安らげるはずの自宅で邪竜の干渉に苛まれた彼は、力を振り絞って天井照明を布で覆った。しかし、灯りは漏れ、なおも輝き続けている。光に浮かんだ邪竜の目は、こちらが見まいと顔を背けてもどこまでも追いかけてくる。
『視るな……』
 抵抗しようとも、心の奥で邪竜が嗤う。悪しき竜はエスティニアンに、甘く、優しく囁き続ける。目の在処を知っているな、力をくれてやろう、だから目を我に還せ、と。
『この俺が……ニーズヘッグに屈するものかッ!』
 怒りと憎しみで頭に血が上り、身体がわなわなと震える。体温が急激に上がってゆく。エスティニアンはこちらを覗かんとする目に抗うべく、椅子の上に飛び乗った。そして光から覗くニーズヘッグの目を、力一杯蹴り払った。おびただしいガラス、ガラス、ガラスの破片!古びた木の床に、石壁に、それらは叩きつけられ粉々に破裂した。ぎらぎらと輝くガラスの粒が、遠くの出口手前まで飛び散った。
 エスティニアンは邪竜の目の残滓を払うべく、油差しを掴んで引っこ抜く。水場に運んで、脂汗に濡れた手で懸命に蛇口を捻り、やっとの思いで灯りを消し止めた。そうしてようやく、心に響く嗤い声が、遠のき始めた。エスティニアンは安堵と同時に、その場にくずおれた。——
  
 エスティニアンはことの顛末を話し終えると、ベッドの縁に掛けて小さく溜息をついた。私は彼に促され、ストーブの傍らにあった椅子に腰を下ろした。
「ずっと闇中行軍で、……灯りの下で休みたいと思ってな。ニーズヘッグの干渉は決して多くはないから、大丈夫かと気を抜いた矢先のことだった。まぁ、これはこれで安らげるというものだ。間違っても付け替えなどしてくれるなよ、総長殿」
「ああ、……」
 エスティニアンは笑みを浮かべていたが、私は喉が塞がって、それ以上言葉を発することが出来なかった。何を言っても慰めにはならないのだという無力感が、私の背に重くのし掛かった。

 ストーブは家主から薪を得て炎を大きくし、辺りをほんのりと明るく、より暖かくしていった。私はやっと、エスティニアンの家を観察することを許された。
 備え付けの暖炉は、薪を入れた形跡が無かった。
 家の古さよりも遥かに古びた顔をした箒が、ベッドの足元で静かに横たわっていた。
 灯りを消し止めたという水場はとても小さく、コップを少し濯いだだけで溢れかえりそうなほど狭かった。
 部屋の隅で、小さな小さな光たちが身を寄せ合っていた。あれはガラスの破片を掃いて集めたものか。
 この部屋はまるで、エスティニアンの心の中のようだった。「あの日」を境に彼の心は凍りつき、火が入ることはない。遠き日々の思い出は、忘れ去られたかのように静かに横たわる。彼に投げ掛けられる優しい言葉や想いを受け止める器はとても小さく、たちまち溢れて消失する。彼の不器用な真心が心の隅できらめいているのを、私はこの肌で、感じたことがある。ここは家主によく似ていた。ここにある全てのものが、彼と同じに愛おしく思えた。
 
 小さなストーブは我々を暖めようと頑張ってくれてはいるが、隅から集まってくる氷のように冷たい空気に負け始めていた。
「悪いな、寒いか」
「いいや、平気だよ」
 エスティニアンは私に毛布を寄越した。
「羽織ると多少はマシになる」
「ありがとう。お前のぶんは……」
「幸い、ある」
「よかった」
エスティニアンは立ち上がると、暗がりから毛布をもう一枚出してきて、肩に引っ掛けた。
 灰色の瞳が、ストーブの炎に照らされて赤々と揺れた。薬缶から湯気が噴き出し、彼はそれをなんとはなしに目で追った。彼の瞳は、湯気の色を吸い取って真白に染まった。普段神殿騎士団本部で見かける、心までも鎧った眼光鋭い彼は、ここにはいなかった。小さくなって、暗がりに息を潜める、何も持たぬ青年が露わになっていた。
「エスティニアン、」
 呼ばれた彼が、顔を上げる。私は心のままに立ち上がって、彼の隣に掛けた。ベッドが申し訳なさそうに音を立てて軋んだ。
「すまない」
 私は彼の背に腕を回し、抱き寄せた。彼の温かな体温が、骨や内臓を正しく覆った筋肉の凹凸が、彼の緊張が、私の手のひらに伝わってきた。私は彼の生を確かめるように、彼の背を撫でた。指が彼の銀糸に触れた。髪は痛んでおり、微かに血の匂いが香った気がした。
「そんなに俺が哀れか?」
「違う、ただ、今は……」
 彼の腕は下ろされたままだった。肩にこわばったような力が入っていた。
「どうか、このままでいさせてくれ」
 私の想いは受け止められず溢れ返って消えてゆくと知っていても——注がずにはいられなかった。ただ、それだけだった。
 
 ストーブの僅かな灯りだけを頼りに、私はエスティニアンに身体を暴かれた。お陰で私は、彼がどんな顔で私を抱くのか、わからなくなった。暗がりで私に覆い被さるとは、暴漢と何の違いがあるだろうか。だが、彼は暗がりにあっては、やはりただの不器用な青年だった。彼はぎこちなく私に口づけを降らし、身体中を舌で、指先で確かめて回った。私が幾ら呼べども顔を見せぬまま、私の上で呻き声をあげ、心臓の音を早めて、闇に融けたまま私の身体を貪った。
 月明かりに照らされた彼の横顔が銀糸と共にしめやかに輝いてやっと、私はエスティニアンに愛されているのだと知ることができた。彼は、眉間に皺を寄せ、私の秘孔を恐ろしいほどに凝視していた。
 本能のままに私に楔を打ち付ける様は、この世で最も醜く美しき獣だった。私は獣に憧れ、焦がれ、自ら望んで私の全てを捧げた。