愛しき子らよ、安らかにあれ

 

 窓の縁が、きい、と音を立てたから、私は飛び起きて名前を呼んだ。
 雪が数滴ガラスに張り付き、それから風が吹いた。窓の縁は、風を迎えてひゅうひゅうと鳴っている。しばらく窓辺を注視していたが、しかし窓は私の視線に気がついて遠慮したかのように、口をつぐんでしまった。
 浮かせた身体を、再びベッドに横たえる。シーツのしわが小さく啼き、枕に頭がじっくりと沈み込んでゆく。
 身体が、心が、ひとりでに解けてしまいそうだった。私の魂をつなぎとめるものが、はらはらとなくなってゆくような、そんな心地がした。
「エスティニアン」
 しゃがれた声が、虚しく消える。
 竜詩戦争が本当に終わるなど、幼い頃は考えたこともなかった。その立役者は、イシュガルドから姿を消した。それで、——今まで見ていたものは、全て夢だった——そんな気さえするほどに、私はまだ夢と現の狭間にいた。窓辺では、私がアイツの頭から剥がした深紅のアーメットが、月明かりに首をもたげている。あれは邪竜の業火に似て、焼けた血の香りを孕んでいた。あれが私に、竜詩戦争と今が地続きの現実であることを伝えてくれる。
 
 重く小さく痛む頭などお構いなしに、私の眼は月に負けじと冴えてゆく。
 
 ここのところ、いつもそうだった。総長室の扉がノックされるたび、はっと顔を上げ次の声に耳を傾ける。だが、アイツよりずっと高い声や低い声が聞こえてきて、私は密かに肩を落とす。
 蒼天街復興事業の計画にあたり大審門前を通るたび、視線を門の向こうへと注ぐ。議会へ赴く道すがら、視界の端にランディングが映ると人の流れに目を凝らす。神殿騎士団本部に戻り、竜騎士団の詰所を通るたび、私の眼は竜騎士たちをかき分けてアイツの銀髪を探す。
 食堂で集ったとき、薄色の騎士が視界を過り、フォークを置いて辺りを見回す。週末のミサでは、大聖堂に行けばアイツが平然と入ってくるのではないかと思って、聖歌集を隣に置き、二人分の席を取る。
 そうして、週の始めがやってきた。アイツは、どこにもいなかった。どこにも、現れはしなかった。
 わかっているのに、それでもまだ私の目は、耳は、いつのまにかアイツを探し続けていた。
 
 エスティニアンが病院を抜け出したことについては、その日のうちにエーベル卿から報告を受けた。私の就任式典の前後であろうと、およそ旅立った時刻もはっきりしていた。故に英雄殿にも「故郷を守りながら待っている」と、伝言を頼むことができた。
 アイツは、ゆくと決めたらどこまでも遠くへいってしまうのだ。窓から猫のように静かに飛び降りて、それから腕を大きく広げ、遠くへ、遠くへと羽撃いてゆく。ゲイラキャットそのものではないか。
「エスティニアン……」
 溜め息が震える。月が、霞のような雲に隠れる。
「……。どうしている、……」
 指は無意識に、枕を握っていた。心臓が身体の深くで小刻みに震え続ける。
 エスティニアンに報奨金をたんまり与えていて、よかった。それを旅の資金にすれば、どこまでもゆけるだろう。アイツにも、アイツにこそ、心から安らげるときが必要なのだ。
 わかっている。わかっているのに、心は彼をさがしてしまう。
 存外、エスティニアンに深く頼っていたのだと、今更ながら気づかされた。
 唯一無二の親友を、親友以上に想っていたからかもしれない。恋焦がれ、惜しみなく愛を与え、それが正しく受け入れられなくても、まったく構わなかった。エスティニアンの渇いた泉に、私の思慕の情を注ぎ続けることが、私が彼にできる唯一のことだった。
 私の周りにはたくさんの仲間がいて、皆と信頼関係を結び、手を携えて歩き続けている。慌ただしくも充実した日々が、着実に積み重なってゆく。
 

 ——私たちはたくさんの皇都の民を乗せ、船に乗って、クルザス川を下ってゆくようだ。
 皇都の民が、残らずみな船に乗り込んだ。乗船口が閉じられ、私は船から身を乗り出す。青々と茂る草原を割る豊かな川。風が心地よく吹いてくる。
 ふと乗船場を見下ろすと、そこにはエスティニアンがたった一人で佇んでいた。顔にはなんの表情も浮かべず、ただそこにぼんやりと立っていた。
 エスティニアン。どうして。乗らなかったのか。
 待ってくれ、私の親友が乗っていないんだ。踵を返した親友を見送るように、船が岸を離れてゆく。エスティニアン、いかないでくれ。待ってくれ、だれか、引き返してくれ。エスティニアン、エスティニアン、エスティニアン——
 

 不意に訪れた微睡みの、つかの間の夢に、息が乱れた。頬がやけに乾いていると思ったら、涙がいくつか、張り付いていた。
 エスティニアンなしで、皇都が新たな時代へと進み始めているだなんて、彼がいなくても新たな時代へと進んでいってしまうなんて、あってはならないんだ、そんなこと。
 
 寝室の窓辺に置いた深紅のアーメットが、頭の真上から月明かりに照らされている。
「忘れていたものを引き取りに、な」
 そう言ってアイツがふらりと私の部屋を訪れはしないだろうか。
 そうしたら私が、アイツの手を取って、もうどこへもいくなと引き留められる。そんなくだらないことを、考えずにはいられない。
 
 重く小さく痛む頭などお構いなしに、私の眼は、月に負けじと冴えてゆく。
 何事も、全て例外なく必ず終わると知ってはいたが、いざ訪れた私たちの終わりの瞬間が、こんなにもあっけないなんて。
 私はベッドから這い出て、窓辺にもたれ、深紅のアーメットを持ち上げた。邪竜の血が手に吸い付くような感触は、エスティニアンを神殿騎士団病院のベッドに寝かせたときに味わった感触と同じだった。
 アーメットを持ったまま、再びベッドに潜る。私は今まで怖くてできなかったことを、実践してみることにした。
 彼のぼろぼろになったアーメットを、私の頭の横に寝かせた。深紅が、こちらを向いている。無数の傷が、月明かりの下で顕になっていた。これほど多くの傷を負ってなお先頭に立ち続けたのか。こんなに命を極限まで燃やして。
 お前が旅立ったのは、私のせいなのだろうか。私が、槍騎兵の指南役だのなんだのとお前に要らぬ役職をつけようとして、お前が皇都に残ることを強く望んだから。無理に引き留めたから、去ってしまったのか。考えは廻り、答えなど得られるはずもない。
 そして私はようやく、アーメットを胸に抱いた。
 腕に、胸に、アーメットの吸い付く感覚が返ってきた。まるで、私が抱かれているような——。この一週間で感じていた、心臓を掻きむしりたくなるほどの遣る瀬無さと、音もなく雲海に落ちてゆくような底なしの悲しみが、少しずつ、癒されてゆくようだった。私は解けそうになっていた身体と心を、アーメットごと抱き締めた。焼けた血の匂いは、どこか懐かしかった。
 エスティニアン、旅先では眠れているか。
 今、どこへ着いたところだ。
 何を食べた。
 これから、どこへゆく。
 苦労はないか。
 今まで少しも浮かんで来なかった言葉が、私の心の底から、ぽつり、ぽつりと零れ始めた。やっと心の底から、エスティニアンを心配することができた。それが嬉しくて、私は、子どものように泣きじゃくった。すまなかった、エスティニアン。すまなかった。——

 何度かの微睡みが、少しずつ長く、深くなっていった。やっとほんの少しだけ、眠れそうな気配が訪れた。安堵とともに、心の底から言葉がまたぽろぽろと零れてくる。
 エスティニアン、疲れたろう。苦しかったろう。
 辛かったろう、孤独だったろう。
 お前が重荷をおろせてよかった。
 友よ、どうか幸福であれ。
 この世界のどこかで、再び巡り会わんことを。

 私も、そろそろ眠るとしよう。
 おやすみ、エスティニアン。おやすみ、お前も、私も、どうか良い夢を。