旅のはじまりに

 カーラインカフェの世話役によると、黒衣森を夜歩くのはなにかと良くないらしい。旅慣れぬのなら、なおさらだそうだ。
 妖精にいたずらをされたくなければ、朝に発つのがいいと言う。その話を聞いた瞬間、以前モーグリ族にいたずらをされたことのあるエスティニアンが、絞りたてのぞうきんのようなしわくちゃの顔をした。
 我々は助言の通り、朝、宿屋の窓に日が差したのを確認して、グリダニアを発った。
 
 太く尖った棘をもつ荊たちは、我々の行く手を阻むようにぎしりと視界を覆う。そこに倒れた大木のトンネルが無ければ、我々は目的地へ辿り着けなかっただろう。
 足元を見ると、荊に乱された陽光が、かすかに地面に光を落としていた。その小さな光にうんと手を伸ばす草花たちは、思わず憧れてしまうほどたくましい。
 荊もその森にいた魔物たちも、決して我々を襲いはしなかった。それどころか、我々の旅の目的を察してか、トレントが方角を指し示すように腕を伸ばすではないか。気のせいかもしれないが、私は小さく礼をして、足音の響きを聴きながらトンネルを歩いていった。目的地が近づくにつれ、私の心臓がしずかにうるさくなってゆく。
 先にそびえる目的地を見上げて、緩やかな坂道を登る。道には草や荊などはなく、すっかりならされていた。なるほど、ここを何千何万組もの愛し合うものたちが歩んでいったのだろう。我々は、彼等の歴史を踏みしめて、これから何千何万組の一組になるのだ。
「嬉しい」それは、ひとりごとのように口を突いて出た。エスティニアンはちらと私を見て、にやりと笑った。
「来た甲斐があったな」
 私の言葉の意図に気がついたのか、どこか照れ臭そうな気配を漂わせて、エスティニアンは目を細めた。そんな顔もできるようになったのか、この男は。
「今のは見たことのない顔だ。新鮮で良い」
「そうかよ。……相棒たちのお陰かもな」
 飾らず告げてみると、彼は満足気に笑った。やはり、表情だけでなく、言葉までも和らいでいる。昔から信義に厚い男ではあったが、長い長い旅路や、暁の皆や民から掛けられたであろう言葉や想いに触れ、変わっていったのだろうか。友の大きな変化に、幸せな想像を巡らせずにはいられなかった。
 エスティニアンは何食わぬ様子で、視線は近くて遠い目的地を真っ直ぐに見ていた。彼はいつもの軽装で、いつも通りに槍を携え、拳をゆるく握って歩き続ける。
 ここを訪れるまでに、腹を割って何度も話をしたのが良かったのだろうか、我々の間に緊張はなかった。やっとここまで来られたという安堵と、これから先を形ある関係として共に歩むのだという覚悟が、私を十二神大聖堂へと運んでゆく。ふとよぎった昨晩のエスティニアンの言葉がよみがえり、私は視線を石畳に向ける。

 衣擦れの音を聴き、押し付けられたエスティニアンの唇を舌で味わう。再び浮き上がろうとする腰をベッドに縫い付けて、私はエスティニアンの髪を抱いた。
 エスティニアンは私の口の中へ深いため息を吐き、唇をはなすと、片腕では私を抱いたまま、サイドテーブルにもう片方の腕を伸ばした。私の身体の上を、エスティニアンの影がゆらめく。無造作に置いた自分の指輪を開きっぱなしのケースに戻して、エスティニアンは言った。
「俺はいつだって、コイツを標にお前のもとへ必ず還る。お前は、俺がどこで絶えようとも、コイツで必ず探し当てられるだろう」
 誓いの言葉のような台詞に、私の目はハッと覚めた。
「死は許さんぞ。とわに生きていろ」考えるより先に、私の口から言葉が一瞬で吐き出された。自分でも驚いたほどだ。
「仰せのままに、総長殿」
 さらりと返された言葉に、胸がちくりと痛んだ。彼の返事はいつものからかう調子だったが、自由を希求する彼を、私はいつまで総長命令で今生に結びつけるつもりなのだろう。彼の唇がひれ伏すように私の身体の下へ、下へとくだるのを感じ、しくしくと胸が痛む。だがエスティニアンならば、私が願えばとわに生きていてくれるような気がして、私は彼の命にも甘えてしまうのだ。
 
「なにをボーッとしている。着いたぞ」
「ああ、これが十二神大聖堂……」
 苔むした石壁は天に向かってそびえ立つ。煉瓦でできた参道は、これから愛を誓い合う者たちのためにまっすぐのびている。
 ここは障壁でも張られているかのように静けさに満ち、そっと吹く風に乗って樹々は恭しくささやく。泉のほとりには花が咲き乱れ、丁寧に手入れされていた。我々は門飾りに戦神ハルオーネの印をみつけ、神々に見送られながらその門をくぐる。
「ここまで、長かった……」
「これからの人生のほうがずっと長いさ」
 ふ、と笑ってエスティニアンが歩きだす。「なるほど、確かにそうだな」本当に、エスティニアンには気づかされることが多い。遅れまいと私も後に続き、純白の聖堂へ足を踏み入れた。
 気配を感じて振り返ると、閉まりゆく聖堂の扉の隙間から、薄氷色の狼の幼獣が見えた。珍しい色だ。石畳に尻をつけ、陽だまりのなかに愛らしくちょこんと居る。視線はこちらか、エスティニアンへ向けられているように見える。
 しかしそれは、私の視線に気がついたのか、ひょいと尾っぽをひるがえし、あっという間にたたたとどこかへ行ってしまった。
「どうかしたのか?」
「いや、すまない。珍しい姿をした幼獣が見えたものでな」
「ほう、どんな姿だ?」
 また、話し始めてしまった。これから控え室で身支度を整え、司祭の御前に向かおうというのに、ほんの少し離れるのも惜しむかのように歩みを緩め、我々はいつまでも話し続けてしまう。
 この大聖堂を出てからも、そうであるといい。我々は、手紙でも、またわかれ、どこかで偶然に顔を合わせても、それがたとえ死地に赴いたキャンプ地であっても、いつまでも話し続けているといい。
 とわに生きて、そして私といつまでも言葉を交わしてくれたら。私は歩きながらポケットに入れた指輪のケースを取り出して、両手で大切に包み込んだ。