さすらいびと、東へ

 湯で湿った木材の香りが、息を吸うごとに身体を巡る。嗅いだことのない、良い香りだ。木に労られているようだった。
 脱衣所で、水着に着替える。キャンプ・ブロンズレイクにある湯治場の脱衣所は、同じく屋外にはあったが、簡易的な個室になっていた。こちらのは衝立で仕切られた空間で、皆遠慮なく素っ裸になって着替えている。
 周りの男たちは、どうやら地位も役職も様々であるらしい。観光客や、地元の客らしき、傷ひとつ持たぬ男も多い。中には刀傷と思しき跡のある男や、銃火器を扱っているのか、指先の黒ずんだ男などがいる。
 エスティニアンは、脱衣所の端で衣服を脱いだ。
「旦那、どうしたんだい、その傷ァ……」
 視線を落とすと、ヒューラン族の男が目を丸くしてこちらを見ていた。視線を感じて振り返ると、老いも若きもその場にいた客が、皆エスティニアンの肉体に釘付けになっていた。
 エスティニアンの肉体は、大小無数の傷に全身をびっしりと覆われている。縫い合わせたような傷や、火傷跡のようなものまで刻まれていて、ただならぬ戦いに身を置いてきたことが一目瞭然だった。
「……これか? まぁ……槍をふるってばかりいたのさ」
 あまり多くを語るつもりはなく、エスティニアンは上着を丸めて籠に突っ込んだ。幸い、客らもそれ以上は踏み込まなかった。
「望海泉の湯が、旦那の身体に効くといいな」
「ありがとうよ」
 なるほど、キャンプ・ブロンズレイクで戦いの話を聞きたがった客とは違い、居心地がよかった。こちらの方が好きだと、エスティニアンは思った。
 髪を後ろ手でまとめ、紐で括る。顔を上げて、脱衣所から見える海に目を遣った。
 青い。しかも、色々な青だ。空は水色。イシュガルドの空より色が濃い。水平線は白く霞み、海は鮮やかで真っ青だった。
 視界の端に、大型船が入ってきた。大型船が、帆を広げて海をゆくのを、欄干に寄って眺めた。
 船は紅玉海の南側からやってきて、どうやら北側の島まで行くつもりらしい。小指の関節一つよりも小さくなって、港よりずっと向こうをゆっくりと滑っている。帆柱には小さな旗もついており、風を切ってはためいている。
 エスティニアンは欄干に両肘を置き、海を切って進む船を、茫として見守った。
 
「うむ! 絶景かな!」
 
 男の声で、我に返る。
 気がつけば、頭が空っぽになっていた。
 昔の自分では考えられない。ニーズヘッグの囁きを捩じ伏せ、アイメリクとともに作戦を立案し、単独で特別任務をいくつもこなしてきた。そんな自分が、まさか「無」を味わうとは、思いもしなかった。己の妙な変化に、思わず笑みが溢れた。
 浴場に足を踏み入れる。見よう見まねで桶を取り、温泉の湯を掬って身体に掛けた。熱すぎず冷たすぎず、良い塩梅だ。
 岩を踏み、風呂の湯へ足の爪先を浸す。温度を確認して、両脚を深く浸ける。膝を折って、身体を湯に深く沈める。
「ハァ……」
 溜め息が漏れ出て、肩の力が抜ける。湯の中へ、汗も、疲れも、胸につかえた苦しさも、溶けて流れてゆくようだ。自分を中心に湯の表面が揺れ、波紋が遠ざかった。身体から溶け出したあれこれも、自分から離れてゆくようだった。
 湯を掬って、顔をすすぐ。手を風呂に沈めると、指の間から細くて真っ白い小さな毛がひとつ逃げ、湯の浅いところをくるくると漂うのが見えた。つまんで、拾い上げる。自分の睫毛だ。エスティニアンはそれをしげしげと眺めた。思いの外太く、先は細くなっている。そして微かに透けていた。こんなものが自分の瞼についているのかと、エスティニアンは内心小さく驚いた。自分の睫毛の色形さえ認識せぬほど、戦いに明け暮れていたのだろうか。——いや、よそう、考えるまい。エスティニアンは手を湯の中に戻して、指先に引っ付いた睫毛を風呂の底に沈めた。湯の表面を、仰向けにひっくり返った小さな小さな羽虫が一匹流れていった。なるほど、睫毛も羽虫も、風呂の滓と一つになるのだ。
 視線を眼下の港へ向ける。港はクガネに来て知った、朱色という色がまばゆい。翠の瓦がのびのびと光るさまも印象深い。海の青さと港の朱さに——絶景かな。脱衣所で聞いた、男の言葉を思い出す。
「お肌がスベスベになるよね」
 女の声が聞こえ、エスティニアンは湯の中で腕を撫でた。肌のスベスベには興味はないが、比較的新しい浅い傷だけでも塞がると、冷える夜の強張るような痛みが減って、有難い。傷よ癒えよと心の中で唱え、エスティニアンはそっと腿を撫でた。
 望海泉の風呂は五つに分かれており、一番上の湯には滝のように湯が注ぐ。エスティニアンは緩やかな岩の坂を上り、一番上の湯に足をつけた。
 熱い。下の湯より、温度が少し高いようだ。湯気が立ち、遠くの建物が湯気に隠れて見えなくなった。前が見えず、滝の近くでぼうっと立っていると、先客がこちらをくるりと振り返った。
「お前さん、傭兵かい?」
「傭兵……? あぁ、そんなところだ」
 ルガディン族の大男だった。エスティニアンと同じ、銀色の髪をしている。背中が、エレゼン族二人分ほどあるだろうか。男の隣に座るヒューラン族が小さく見えた。
「一杯どうだい」
 エスティニアンは、大男の隣に腰を下ろした。大男は湯に桶を浮かせ、その中に徳利と猪口、見慣れぬつまみらしきものを入れている。大男の手にぐいっと押され、桶が湯を掻きながらこちらへ泳いできた。
 透明な酒が注がれた小さな猪口を摘む。これなら、一口で飲めそうだ。エスティニアンは勢いよく猪口を傾けた。
「旨い……」
「米酒は初めてか?」
 エスティニアンはこくこくと頷いた。米酒はよく温まっていて、とろりとした舌触りと、味わったことのない甘みが口の中に広がった。後味はすっきりとしていて、これならいくらでも飲めてしまいそうだ。風呂と酒精の熱さで、身体の力が一気に抜ける。
「これも旨いぞ。食べてみろ」
 大男は小皿の肴を指差した。
「なんだ、これは?」
「イカの干物だ。こいつも初めてかい?」
「あぁ……」
「そりゃあいい。しばらく噛んでな」
 触ると、随分硬かった。こんなに硬いものが本当に旨いのか疑問だ。鼻に近づけてみると、クガネの港で嗅いだ、魚の匂いがした。そいつを口に入れる。
 驚いた、噛めば噛むほど、じわじわと旨い味がする。唾液も手伝ってイカが解れたか、少しずつ柔らかくなってきた。より旨い味がイカから溢れ出して、いつまでも噛み続けてしまう。
「味が薄くなったら飲み込めよ。酒で喉の奥に流し込んじまってもいい」
 エスティニアンは頷く。隣のヒューラン族の男が、猪口に酒をついでエスティニアンに寄越した。それを受け取って、エスティニアンは酒と一緒にイカを飲み込んだ。
「ほう……コイツは良い」
「旨いっすよね!」
 ヒューラン族の男が、目を輝かせる。
「どこで手に入るんだ?」
「小金通りでも買えるんすけど、潮風亭で飲むときに注文すると、手軽に楽しめるんで良いっすよ! もし紅玉海を旅する予定があるんなら、海端にある漁師村で調達できますね!」
 ヒューラン族の男が、愉快そうに言った。旨いものを教えるのはさぞ楽しかろう。
 米酒を飲み、イカの干物を摘みながら、しばし男達と何気ない話をした。ルガディン族の男はどこぞの首領で、ヒューラン族の男はその部下なのだそうだ。しばらくクガネに滞在したら、今度はシシュウに行くと言う。
「お前さんは、これからどうするんだ?」
「そうだな……当て所もない旅だ。しばらくはクガネに滞在して、それから紅玉海の島々を周ってみるか」
「そうかい。気ィつけて行けよ。もっとも、お前さんみてぇな武人なら、魔物も一捻りだろうがな」
 皆で酒を飲み干し、小皿を空にして、ルガディン族の大男とヒューラン族の男に別れを告げた。——そろそろ俺も風呂から出て、身体を冷ますか。そう決めて立ち上がった途端、エスティニアンの足元がぐらついた。幸い尻餅はつかずに済んだが、酔っ払うわのぼせるわで、手脚も頭もぐらんぐらんだ。エスティニアンは這うようにして風呂から上がり、ベンチに腰掛けた。
 小岩の床はつめたく、足の裏から心地よい温度が上がってくる。腕に当たった柔らかな風が、胸を撫でて通り過ぎる。首筋にかかる風は背中を撫で、湯の雫だか汗だかを冷やしてくれる。このままここで眠れたらどんなに気持ちが良いだろう。未だぐらぐらと回る頭で、エスティニアンはぼんやりと想像をめぐらせた。
 
 空に夕闇が迫り、湯気越しに、建物の窓や街の提灯の灯りが見えだした。ふと振り返ると、夕陽に染まった望海楼の屋根の上から、湯気の柱が空高く昇っていた。