2 帝竜の体温
『■■■■■■、私を愛してくれてありがとう。
……だから、行かないと。目の届かないところへ…』
黒髪の女性は、数名からの手引きを受け、風の吹きすさぶ夜のクルザス中央高地に一人、足を踏み入れた。背後で門が重々しい音を立てて閉まる。もう後戻りはできない。ランプを持ってはその明かりで追われてしまう。女性は暗がりに目を凝らし、慎重に歩き始めた。幸い、今宵は満月だった。
足跡を悟られまいと、女はフードの端を握りしめて引っ張り、一層深々と被った。唇をきゅっと結んで、目元を険しくしたまま、石畳で馴らされた街道を歩む。行き先は黒衣森・北部森林。あちらも街道に魔物が多いと聞いたことがあったが、或る男の忌み子を宿したまま皇都に留まり続けることの方が、余程危険だった。吐く息は白く、冷たい風が頬を刺す。その風の冷たさは、心までも貫いてゆくようだった。
門を出た先を右に曲がりまっすぐに進み続ける。左に行けばフォルタン家に見つかる恐れがあった。もしも保護されてしまえば、たちまち善意で皇都に連れ戻されてしまう。右を行った先は洞窟があり魔物が潜むと知りながら、女性はこの道以外に選ぶことができず、決死の覚悟で進むより他なかった。ここで食いちぎられて命を落とすならば、それはそれで構わない。
俯いたまま、平らに慣らされ正しく並べられた石を目で一つ一つ追いながら進む。決して草を踏みしめてしまわぬよう、決して魔物などに気取られぬよう、決して哨戒中の騎士に見つからぬように、影に身を隠してひっそりと、足音を殺しながら。寒さに悲鳴を上げる胎をさすりながら、さながら罪人の脱獄の如く。
女性は胎の子に声を掛けた。
『あと少しの辛抱よ……』
街道をしばらく行くと、曲がり道と、洞窟に続く急な上り坂が見えた。黒髪の女性は小さく溜息を洩らし、上り坂を上ってゆく。始めの数歩は平気だったが、坂道が急になってゆき、たちまち息が切れた。女性は喘ぎながら石畳に指先をつき、ほとんど四つん這いのような有様で、なんとか上ってみせた。汗が頬を伝い、それが冷えて身をますます凍えさせた。
急こう配の頂上付近に、雪解け水が留まる小さな池がある。女性は渇き始めた喉を潤さんと、池の水を両手で掬って一口、口に含んだ。口内に辛うじてあった熱は氷のような水温に絡めとられ、身体の奥に押し流される。かじかんだ指を布で拭い、袖の奥に引っ込めた。
(『もうひと頑張りすれば、寒さを凌げるはず』)
斜面をやっとの思いで登り切り、洞窟を歩いてゆく。光ひとつない洞窟は果てしなく暗く、心にかろうじて宿っている希望が吸い取られてしまうような心地がした。背後の入口が月明かりに照らされ辛うじて見えるうちに、壁を伝って安全を確かめると、女性は洞窟に腰を下ろした。
胎をさする。そこには、隠し通せぬ膨らみができていた。
脳裏に、子の父親の顔が浮かぶ。彼は伝統を重んじ、規律を重んじ、イシュガルドの政治体制をよりよく維持せんと奔走していた。決して明かしてはくれなかったが、彼なりの正義があり、その実現のために周囲を蹴落とし、上り詰めようとしているらしかった。女性は、彼の信念宿りし蒼き瞳を愛していた。向けられる劣情の中に彼の孤独を見た心地がした日は、彼に寄り添い、一層深く、丁寧に愛した。
彼の孤独と、女性の宛てのない愛の結晶が、胎に宿った命の正体であった。
女性は、生きてクルザスを出られたならば、将来ある彼の視界に入らぬところで子を産み育てるつもりだ。例えばウルダハ。女の身体があれば、まずはその日の食料を二人分買い求めるくらいは稼げよう。或いはグリダニア。日によく当たり、精霊を重んずれば、おのずとグリダニア系エレゼン族に紛れよう。暖かい森の中で、恵みをいただき、慎ましく生きるのも良いだろう。異国の地で産まれたならば、この子はイシュガルドとは縁のない者として自由に生きることができる。
もとより彼とは施し施される関係であった。身寄りもなく、ゆえに将来の見通しは立たなかった。しかし、イシュガルドさえ出られれば彼との縁が切れ、代わりに希望がやってくるはずだ。不思議とそう信じていられた。
女性は、息を整えて、再び立ち上がり歩き始めた。
洞窟の奥から、獣の遠吠えが響く。洞窟の入り口からは、何者かが草を踏み締める音。洞窟内に反響する二つの音に女性は耳を澄ませながら、額に冷や汗をにじませた。心に薄い絶望の幕が下りてゆく。
——私はこの夢が、私の脳が私のために都合よく作り上げたおとぎ話だと知っている。
どれほど長く眠っていたのか、ぼうっと開いた瞳で周囲を確認する。脳は未だ微睡みの中にあり、夢に出てきた女性の面影を追っていた。
闇を抱いた髪色、遠慮がちな小鼻、鋭く吊り上がった細い目。ついぞ父上に似なかったこれらのパーツは、おそらくはあの女性から譲り受けたものだろう。あの女性は——母上は、私に自由を与えようとしていたのだろうか。もしくは、自身が自由になりたくて、私を連れて行ったのだろうか。
私は瞼を下ろして、思考する。
父上への愛を思えば、母上が父上のもとを離れる決断は、身が裂かれる思いであったろう。しかし、彼女は私を生かす道を選んだ。否、生かされたのだろうか。少なくとも私を産んだ母上は、何故私の手を放したのだろうか。生まれて間もなくボーレル家に引き渡されたと、ある貴族の陰口で聞いたことがある。私を産んで、それから母上はどうなった?なぜ私は母上を知らないのか。嗚呼、私が邪竜の影との盟約に従って神殿騎士団総長の座を降りることなどしなければ、寄る辺無き女性の救貧制度を設け、市井の声に耳を傾ける中で、母らしき女性に会うことができたかもしれないのに。私は今、盟約通りに、邪竜の影が己の意思と肉体を維持するための機構となり果てていた。
身重の私の手のひらは、いつの間にか私の胎に置かれていた。無意識のうちに胎をさすっていたことに気が付き、果てしなく昏い感覚に襲われた。私が胎の子を労わるなど、何故。私は近頃、私の理性と、私の本能が、次第に乖離してゆくのを感じていた。理性的であればしなかった筈のことを本能的に行っていることがあり、気が付いて仄暗い感情に襲われることが多かった。その最たる例が、胎の化け物を殺さねばならないと理解している私と、膨らみ始めた胎をさする私の乖離だった。私は、何故エスティニアンではないと理解していたにも関わらず、エスティニアンの肉体から放たれた精を全て受け止めてしまったのか。そして何故私は、無策のまま子らを胎に宿し続け、育て続けているのだろうか。
私が子を意図的に殺せば、邪竜の影の矛先が皇都に向かうことは必定。私が意図的に死んでも、結果は変わりない。では、事故なら?滑落してしまえば、邪竜の影も文句は言えまい。次第に肉体に眠る別人の意思を抑え込めなくなり、魔力の薄れと共に、エスティニアンの手に肉体が明け渡されることになるだろう。いっそ、何処からか滑落してしまおうか。
こうして巡る思考を、口に出せぬことほどつらいことはなかった。
私の傍らにはいつもエスティニアンがいて、私の思考に耳を傾け、時に諫め、怒り、私を結論へ導いた。だからこそ私は、正しく政を進めることができた。彼は最も賢く、最も強い、私が焦がれた唯一の男であった。彼の助言が私の支えになっていたことは、言うまでもない。
「エスティニアン、…」
瞼を開けぬまま、私は虚空に手を伸ばす。開かれた掌は何も掴まない。私が力を抜くと、腕はばさりと音を立てて藁の上に落ちた。この胸を覆う感情を、何と云おう。
夜の寒さからだろうか、身体の内側から湧き上がるような寒気に気が付き、私は恐る恐る目を開いた。私は仰向けにしていた身体を横向きに変え、膝も腕も、首も、小さく小さく折りたたんだ。視界いっぱいに、取り換えたばかりの藁と星々が広がる。藁が吸った真昼の太陽の馨りは、熱を求める私の心に寄り添う。藁の中で深呼吸を繰り返していると、寒くとも幾らか気が紛れた。
(このまま凍えて死んでしまえたら)
先刻までぐるぐると回っていた思考は早くも自らの役割を放棄し、流れもせず、失せもせず、ぼんやりと霞の中に漂い始めた。そうして、死に思いを馳せる。
私は、身体を横たえたまま、薄い衣服の上から痛みの引いた内腿をゆっくりとなぞった。身も心も邪竜の影に踏みにじられ、ばらばらに裂かれた心地がしていたが、今となっては如何なる姿であれエスティニアンの貌が近くにないことが心細い。素直に、心細いと感じてしまう。あれは異形だといくら自分に言い聞かせても、本能が理性を否定する。日毎開いては嘆き続けた内壁の傷は、あの夜から二度と開くことはなくなった。身体のあちこちに付けられた爪痕や噛み痕も、あれほど深々としていたというのに、今は経た時がほとんど修復してしまった。胎の内で蠢くものを除いては。
私の胎で、命が生きようと這い回る。
最初は身体の方が異物による侵食を訴えて、ほとんど毎日嘔吐いていた。とにかく今身体に在るものを吐き出さなければ気が済まないのか、喉に迫り上がる心地の悪さを感じたものだ。わざわざ川辺に這って行き、胎にほんの少し入っていた獣の肉や水を口から川に流した。流すものが無くなって尚、私の身体は口からなど出るはずもないものを探し求め、吐き出されることを信じて嘔吐き続けた。気休めに黄色い体液を吐き出しては、虚しさに喉が痛んだ。
しかし、私の身体は気が付けば私の心よりも早く、侵蝕を受け入れ始めた。ここ一週間ほどは嘔吐く日はなく、異物が体内に在る状態に馴染み始めているようだった。まだ嘔吐いてくれている方が、人間でいられた。これでは、私も、化け物ではないか。
『起きていたか』
頭上から降り注ぐ声に、私は上体を起こして耳を傾ける。そこには、翼を開き、ゆっくりと下降するニーズヘッグの姿があった。
「目覚めたばかりだ…」
『三晩も眠るとは…貴様のそれは人に非ざる眠り方だ。』
「……何が言いたい?」
『竜の子に適した環境を胎内に作るためには、相応の眠りが必要。貴様の意思とは関係なく、貴様の肉体は竜の母になろうと』「それ以上言うな…!」自分でも驚くほど、低く唸るような声が洩れた。私の制止の言葉に、邪竜の影が怒りを滲ませた。
『我に命令するとは、己の立場が解っていないらしいな。』
邪竜の影は、人型にその容を変えた。エスティニアンの姿形に変化すると、彼は右手を高く振り上げた。肩や腕に食い込んだ邪竜の眼球がぎょろぎょろと回転し、私の姿を捉えた。
『解らせてやろう』右手は私の頬に容赦なく振り下ろされた。頬を打つ音が高らかに響くと同時に、私の頭は藁に勢いよく投げ付けられた。エスティニアンの瞳は燃えるように緋く輝き、私の顔を覗き込む。苦悩と、底無しの怒りと、他者を捩じ伏せんとする支配欲。邪竜の影はそれらの感情に顔を強く歪ませていた。私の髪を掴んで上半身を無理矢理起こすと、再び、私の頬を打った。顔の表面いっぱいに痺れるような強い痛みが広がって暴れ、涙が滲む。私は心の中で、何度もエスティニアンに謝り続けた。肉体のみが機能しているとはいえ、エスティニアンに手を下させたことは、彼の精神にどれほどの影響を与えるのだろう。
『竜の姿で仕置きをされなかっただけ、ましだと思え。貴様が子を宿していなければ、我の顎で貴様を砕いていたところだ。』
「すまなかった…」
エスティニアンと私のために、私はニーズヘッグに対し、非礼を詫びた。もうこれ以上、エスティニアンに手を下させてはならない。もうこれ以上、私はエスティニアンを傷付けてはならない。邪竜の影は私の詫びの言葉を聞くと、不愉快そうな顔をして鼻で嘲笑った。エスティニアンが、本来の彼の姿であった時には見たこともない顔をすると、その表情の意味が何であれ私の精神が嘆く。エスティニアンにその顔をさせているのは、私ではないのか。
『貴様の肉体がそれほど作り変わっているのならば、寒かろう。』
「…確かに寒いが、いったい…?」
『竜の卵を孵すのに必要な体温が、貴様には足らぬ。故に補ってやる必要があろうな。』
邪竜の影は緋き炎を巻き上げ、エスティニアンの姿からニーズヘッグの姿へと転身した。そして、藁の上に身を横たえる私を背後から包むようにして寝そべった。私の全身を、ニーズヘッグの翼が覆う。尻尾も私の身体を包んだ。邪竜の影もまた、身体を小さく、小さく折り畳んだ。私の視界は彼の翼を覆う濡羽色の鱗でいっぱいになった。
『云った筈だ。今に貴様は、熱を求めると。』
彼の体温を受け、熱が全身に正しく流れてゆくのを感じる。それは私の身体の必要なところへ正しく集まってゆく。これぞ、私が求めた心地良い体温だ。身体だけでなく、訳もなく心が満たされていった。胸の痞えが勝手に解れ、彼の体温を喜んで受け入れた。だが私の理性が脳でのたうち回る。かくも熱に満たされ精神が充足するなど、決してあってはならないのに。これでは、私の本能はもう二度と、——アイメリク・ド・ボーレルには戻れない。
ふと、夢に見た母上の姿が思い出される。母上は、父上からこのように、寄り添われることはあっただろうか。身重の身体は温められていただろうか。一人で私を胎に宿し、孤独に暮れてはいなかったか。
母上が夢の中で噛み締めていた、『彼の孤独と、私の宛てのない愛の結晶が、この子の正体』という話が蘇る。ならば私の身に宿るこれは、ニーズヘッグの孤独と、私の、エスティニアンという対象を失って彷徨う羽目になった愛の、結晶なのだろうか。胎で生きようとしている命を、私の本能はもう殺せない。ならば理性は、殺せるだろうか。
私は問いに、私なりの答えをひとつ、提示する。
肉体が母のそれに作り変わると、本能はもう、生きようとする命に杭を下ろせない。
産んではならぬものが宿っていると知っていても、本能が、理性の判断を拒むのである。
拠り所を失った理性が、幸福の中で静かに絶望した。
[続]
